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2005年11月29日

西村眞悟衆議院議員の逮捕に関して

前の文にコメントをいただいた皆様、ありがとうございました。これと同様の趣旨ですが、本日(11/29)付の調査会メールニュースで以下の見解を「個人としての見解」と断った上で発表しました。
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 今回のことについては、今後捜査及び法的措置が取られると思いますし、西村議員自身が責任を取ると言っているのですから、事態の進展を見守りたいと思います。

 しかし、私は、横田めぐみさんの事件を契機に拉致問題が国民的関心事になっていったときから、共に関与してきたものとして、敢えて申しあげておきたいと思います。今回の結末がどうなるにせよ西村議員が拉致被害者の救出に当初から、かつ先頭に立って尽してきたことは絶対に否定できるものではありません。

 私は、旧民社党当時のつながりから、横田めぐみさんの問題が明らかになった平成9年初め、議員会館の事務所を訪れ西村議員に救出への協力を依頼しました。当時は拉致問題など口に出すのも憚られるような状況でした。そして、だからこそ、西村議員にお願いしたのです。そして、西村議員はその場で救出のため行動することを約束、その後まもなく、西村議員は横田めぐみさん拉致問題に関わる質問主意書を提出、さらに拉致問題にとって極めて大きな転換点となった平成9年2月3日の衆議院予算委員会での質問をやってくれました。

 今でこそ救出運動は国民的運動になり、多くの議員が拉致問題を取り上げ、200名を擁する超党派の拉致議連ができ、両院に特別委まで出来ていますが、当時は誰も取り上げる人はおらず、2月3日の質問のときは、同じ新進党の議員からヤジが飛んだ程でした。その厳しい状況の中で、西村議員は地道にこの問題に取り組んでくれました。この8年間、西村議員のやってくれたことは、今回のことで否定されるような次元の問題ではありません。ちなみに、今回逮捕された佐々木俊夫・政策秘書も同様に拉致問題には自ら苦労をかって取り組んできてくれました。

 一方、これまで多くの与野党議員、あるいは議員秘書が北朝鮮との黒い繋がりを噂されてきました。どう考えてもそれが事実であるとしか思えない人も1人や2人ではありません。しかし、そのことを理由として司直の手が伸びたことはありません。付け加えて言えば、大阪府警も大阪地検も、原敕晁さんの拉致実行犯すら放置したままで、ごく通常の市民活動を営むことを許しています。私には、どうかんがえてもこちらの方がはるかに深刻な問題だと思います。

 「国会議員として、拉致問題を解決できないことを申し訳なく思う」と言った人は、これまで何人もいませんでした。西村議員はその一人であり、口だけではなく、これまで身体を張って拉致問題をはじめとする国家の最重要課題に取り組んでくれました。私は今後の経過がどうなろうと、西村議員を支持します。そして一刻も早く拉致被害者救出の最前線に戻ってともに闘ってもらいたいと願う次第です。

 つきましては、私自身は今後様々な形で西村議員及び佐々木秘書を支援していこうと思います。僭越ではございますが、ご賛同下さる方がおられましたら下記までご連絡いただければ幸いです。おそらく各所で支援の輪ができると思いますが、今後それに合流するにしても何にしても、できることをしていきたいと思います。

〒112-0004 東京都文京区後楽2-3-8-401 戦略情報研究所気付 荒木宛
fax 03-5684-5059 Email k-araki@mac.email.ne.jp

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2005年11月26日

西村眞悟議員について

 元事務所職員の非弁活動に関する西村眞悟議員の問題について、自分の見解を述べておきたいと思います。
 法的な問題は現在捜査が行われているので、やがて明らかにされるでしょう。そして、西村議員は相応の責任を取ることになるとは思います。
 しかし、私は、その結果がどうであれ、西村議員には政治家としてこれまで以上の活動をしてもらいたいと思います。
 私にとって、西村議員は旧民社党時代からのつながりであり、そのつながりから、横田めぐみさんの問題が明らかになった平成9年初め、救出への協力を依頼した人です。そして、西村議員はその場で「分かった」と言ってくれました。「北朝鮮のやつら、ひどいことをしやがる」と言った西村議員の言葉が今も耳に残っています。
 その後まもなく、西村議員は質問主意書を提出、さらに拉致問題にとって極めて大きな転換点となった平成9年2月3日の衆議院予算委員会での質問をやってくれました。今でこそ拉致問題は多くの議員が取り上げ、拉致議連ができ、両院に特別委まで出来ていますが、当時は誰も取り上げる人はおらず、2月3日の質問のときは、同じ新進党の議員からヤジが飛んだ程でした。その厳しい状況の中で、西村議員は地道にこの問題に取り組んでくれました。この8年間、西村議員のやってくれたことは、今回のことで否定されるような次元の問題ではありません。
 一方、これまで多くの議員、あるいは議員秘書が北朝鮮との黒い繋がりを噂されてきました。どう考えてもそれが事実であるとしか思えない人も1人や2人ではありません。しかし、間違いなく北朝鮮から利益の供与を受けて、日本の国益を害していると思われる議員に、そのことを理由として司直の手が伸びたことはありません。私は、こちらの方がはるかに深刻な問題だと思います。
 「国会議員として、拉致問題を解決できないことを申し訳なく思う」と言った人は、これまで何人もいませんでした。西村議員はその一人であり、口だけではなく、これまで身体を張って拉致問題をはじめとする国家の最重要課題に取り組んでくれました。
 拉致問題は、表面上の膠着状態とは裏腹に、今重要な転機にさしかかっています。誤解も批判も恐れず、西村議員に、あえて御健闘を期待する次第です。

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2005年11月17日

「しおかぜ」

 10月30日から(トラブルで開始が遅れたので、正確に言えば10月31日0時半から)、特定失踪者問題調査会では北朝鮮向け短波放送を行っています。
 ヨーロッパのサマータイム終了の日が10月30日だったこともあり、放送当初は予定の23時半から始まらず、2日間が1時間遅れ、3日目は10分遅れで始まり、0時終了(つまり最後の10分は放送されず)といったトラブルもありましたが、その後は順調に流れています。可能な限り自分自身でモニターするようにしていますが、東京でも結構鮮明に聞こえます。
 それにしても、この収録をやっているとき、そして、流れている放送をモニターしているときに感じるのは、「この人の数十年というのは何だったのだろう。この人が拉致被害者で、戻ってくることができたとしたら、いったいどうやって謝ったらいいのだろう」ということです。

 5人が帰国した直後の平成14年10月20日、皇后陛下のお誕生日での、宮内庁記者会の質問への文書による回答はまさに拉致事件の本質をついたものだと言わざるを得ません。
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 悲しい出来事についても触れなければなりません。
 小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同体の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います。
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 考えてみれば私など、学生時代から朝鮮半島問題をやっており、昭和55年の産経のスクープの当時から拉致のことは知っていたのですから、以後救出運動が始まる平成9年まで何もしてこなかったことは、知らなかった人より余程罪があると思います。
 この問題はこれから先、新たな事実が明らかになるにつれ、さらに私たちに重いものを突きつけるでしょう。自分自身がそれに耐えきれるかどうか分かりませんが、ともかくかつて目を逸らしてきたことを取り返すためにも、逃げずに正面から対していきたいと思っています。ここでこう書いているのも、自分を逃げられなくするためでもあります。

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2005年11月 6日

闘うということ

 最近しばらく更新しておらず、お読みの方には失礼しています。

 さて、小泉純一郎という人について、私なりにいろいろ考えることがあるのですが、あの人に対する支持の根源は、彼の闘争心にあるのではないでしょうか。もちろん、前回衆議院選挙のやり方とか、テクニックの上手さもあるのですが、それまでの政治家と異なる喧嘩のしかたが庶民的な喝采を呼んでいると言えないこともありません。1960年体制の「表面対決、裏で談合」という自社なれあいもそうでしたが、今はまた違った意味で本当の闘いではないように思えます。
 もともと、刀や鉄砲でやっていたことを投票用紙に置き換えたのが政治なのですから、本来は闘争であり、その闘争を忘れていたのが1960年体制の政治だったのかも知れません。
 これは自戒の念を込めての話ですが、私のいた民社党も、結局は自社の1960年体制(当時は55年体制と言っていましたが)の中で、隙間産業的に生きてきたと言えます。政策の実現や共産主義勢力との闘いという意味ではそれなりの役割は果たしたという自負があり、また、中にいたものにとってはとても居心地の良い政党でしたが、闘うという本質においては欠けるところがあったように思います。
 結党直後、安保改定の後で一時期西尾末廣委員長を首班とする民社・自民の連立政権が構想されたことがありましたが、もしあれに乗っていれば1960年体制は阻めたのではないか、その後の政治も大きく変わって戦後体制の脱却ももっと早くできたのではないかと思います。
 今から言ってもしかたないことなので、繰り言はやめますが、いずれにしても政治は常に闘いであることを忘れてはならないと思います。そういう意味では今回の総選挙をめぐる政変の中で、本当に闘ったのは平沼赳夫・拉致議連会長でした。やがてその闘いの成果が現れるのではないかと、期待しています。
 この「闘い」あるいは「戦い」というのは国際社会では当然のことであり、国家間というのは基本的にそういうものだと思っていた方が間違いありません。「日中友好」だとか「日韓友好」だなどという言葉に振り回される必要はないと思います。かえって「友好」ということばに拘束されると問題が複雑化するというのは中国人評論家の石平氏なども著書で指摘されていますが、私もその通りだと思います。
 「人生は闘争である」
 20代の頃はこれが私の座右の銘でした。もう一度、これを引張り出してくる必要があるのかな、と思っています。少なくとも「専守防衛」では個人も国も守れませんから。

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