「命の大切さ」?
幼い子を狙った凶悪犯罪が繰り返されている。
ご家族にとって、その記憶は消せるものではない。おそらく一生、傷の癒えることはないだろうし、子供を持つ親ならわが身に置き換えてぞっとした人も少なくないだろう。
しかし、こんなとき自治体でも学校でも、繰り返されるのが「命の大切さ」というお題目である。なるほど命は大切に決まっている。しかし、何かしなければならないから「命の大切さ」を説明する時間をとってお茶を濁すというのでは、問題は絶対に解決しない。
私自身はどういうわけか同級生や世代の近い友人が若くして命を落とすのをたびたび見てきた(現場まで見たわけではないが)。病気もあれば自殺もあった。
海外事情研究所の先輩だった酒谷隆先生は2年前の12月に急逝された。年末最後の所内研究会で発表を終えて研究室に戻った直後脳幹出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。私は第二発見者だったが、あらためて命のはかなさを感じざるを得なかった。
私は経歴にも書いているように予備自衛官である。毎年1回5日間の訓練召集があり、射撃もやる。
通常使うのは64式小銃で、7.62ミリの弾を1回の訓練で30発足らず撃つだけだが、小銃でも反動や音は相当なもので、空砲でも銃口の前に水をいれたペットボトルを置いて撃つと穴が開く。訓練のたびに「これがまともに当たったら俺の頭も1発ですっ飛ぶだろうな」と思うのである。戦争というのはそれが現実のものとなり、多くの人が命を失うのだ。
幸い、自衛官は今のところ戦闘をしなくて済んでいる。しかし、服務の宣誓には「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」という部分があり、これは当然死を前提としたものである。もちろん、私たち予備自衛官も招集されていれば同じ扱いになる。
また、もっと日常的に現場の警官や消防士は自らの命を失う可能性と背中合わせに仕事をしているのだ。中越自身のとき、長岡で岩に挟まれた自動車の中から子供を助け出したレスキュー隊の人たちは、自らも二次災害による犠牲者になる可能性があった。「命が大切」なら、生きているか死んでいるか分からない人間を助けるために、それこそ「命をかける」必要などあるはずがないのに、彼らはそれをした。
人権の大切さを大声で叫びながら、拉致問題や北朝鮮の人権問題になると急にそっぽを向いてしまうように、子供たちが危険にさらされている現実を放っておいて、「命の大切さ」など唱えてみても空しいだけだ。もう一度、命とは何なのか、どういう価値があるのか、あるいはどうすれば価値が見出せるのかを考えて見る必要があるのではないか。おそらく死ぬまで結論は出ないだろうが、安易な結論付けではなく、正面からその本質を知るべく努力を続けるべきだと思う。
残酷な事件を受け止めるのはなかなか難しいが、まったく関係のない立場とはいいながら、亡くなった2人の少女を守るためにに何もしてあげられなかった身としては、命とか死という問題から目を逸らさないようにすることくらいしかできることがないのである。
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