男たちの大和
今ごろになって映画評でもありませんが、昨年は「ローレライ」「戦国自衛隊」「亡国のイージス」、そして「男たちの大和」と、戦争ものないし自衛隊が舞台の映画が続きました。もう日本で戦争映画は作れないだろうと思っていただけに、立続けに上映され、それぞれがそれなりにヒットしたのはある意味新鮮な感動でした。ただ、前の3作、福井晴敏氏原作のものはあくまで小説であるのに対して、「大和」はもともとが史実に基づくものだけにまた別の感慨がありました。
私はいわゆる「海軍善玉論」には抵抗感を感じ、敗戦は悪者にされている陸軍より海軍に大きな責任があると思っていますし、大和の沖縄特攻も大学の授業では学校の成績の良い人間が愚劣な判断をする一例として話しています。それは今も変わりませんが、あえてその中で自らの死を受け入れて沖縄に向かった三千余人のことは忘れてはならないと思います。まさに映画のコピーの中にあった「彼らが命がけで守った未来に、私たちは生きている」のです。もちろん、その敬意は大和で散華した英霊のみならず、先の大戦で亡くなった軍民すべてに対して払われるべきであることは言うまでもありません。
それにしても、大和の出撃は「大艦巨砲主義の終焉」ということだけで片づけられてしまいますが、終戦近くで出すにしても、沖縄に向かうにしても、もう少しやりようがあったのではないでしょうか。「歴史のIF」と言われればそれまでだが、出撃の時期にせよ何にせよ、陛下(昭和天皇)の「海軍にはもう船はないのか」というお言葉に恐懼して、海軍首脳が思考停止状態になり、あわてて「ともかく出せ」という判断をしてしまったように思えてなりません。その点は特攻を作戦として日常化した時点ですでに取返しの付かない状態になっていたとも言えるのですが。
普段ボーッとしていても、そういうときに冷静な判断をし、責任をとらなければならないのがリーダーです。この場合で言えば海軍軍令部長であり、連合艦隊司令長官ということになります。しかし、結果論とはいえ彼らが三千人と世界最大の戦艦を海に沈めて責任逃れをしたのは事実です。そして、そのような構造は今の日本にも生きています。映画を観ながら、それぞれの配役に自分を置き換え、「自分があの立場にいたらどういう判断をしただろうか」と考えましたが、どうやったところで「死」と隣り合せになった状況を理解することは出来ません。しかし、それに近づこうと努力することが、英霊に対して私が払うことのできるささやかな敬意であるように思います。
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