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2006年1月24日

デジタル

 先日旧知の稲川和男さん(映像教育研究会代表)からカメラを譲ってもらった。オリンパスOM-2、フィルムカメラの一眼レフである。発売開始は昭和50年、実に30年以上前のカメラである。
 「今ごろ何でフィルムカメラ?」という方もおられると思うが、最近デジタルの世界に抵抗感を感じるようになってきて、無性にアナログのものに触れたくなったというのが発端。
 フィルムカメラは父のお下りのカメラ(これはおそらく昭和20年代のもの)で始まり、中学生のとき小遣をためて最初に買ったのがペンタックスのSLという一眼レフだった。ピントも絞りもシャッタースピードの調節も、そしてフィルムの巻上げも全部手動。さらに、当時のペンタックスのレンズのマウント(本体への装着の仕方)はネジ式と言うのか(正確な言い方を忘れたが、何か呼び方があったと思う)、レンズをクルクル回して固定するやり方だった。
 このカメラで撮ったのはほとんど鉄道写真だった。望遠レンズも持っていなかったので、標準レンズだけで、それでもけっこうあちこちに行って撮った。大学に入り、その後就職してからは若干金回りが良くなり、ミノルタのα7000とか、コニカのAE-1を買ったりした。今はその両社が合併しており、先日のニュースではカメラ自体からの撤退をするという。時代の移り変りを実感させられた。
 その後、所帯を持ってからは鉄道写真は諦め、さらに拉致問題に取り組むようになってからは模型も鉄道趣味自体をほとんどストップさせざるを得なくなった。調査会の活動をやるようになって、「これは拉致が解決してももっと大きな問題に取り組まなければいけなくなる」と思い、逆に趣味も再開することにしたのだが、その間に時代はデジカメの時代となっていた。
 もちろん、今も失踪者の現地調査などはデジカメにご厄介になっているし、今後もそうだろう。ともかく、失敗も気にせず、保存もかさばらず、メールでも簡単に送ることができて画像の加工も自由自在ということになれば、フィルムカメラとは比べ物にならない便利さである。
 しかし、最近になって、ふとこの便利さが寂しく感じられるようになった。手ごたえのなさというか、本当にこの写真は写「真」なのだろうか、という思いである。パソコンの上でどうにでも変えられる画像に、何とも言えない抵抗感を感じたのだ。
 そこで、フィルムカメラが欲しくなった。ところが、あらためてカメラ屋に行ってみると、置いてあるのはほとんどデジカメばかりだった。フィルムカメラは端の方に、遠慮するように置かれているだけで、見ていても店員が寄ってくるわけでもない。あらためて時代の移り変りを実感した。高級品は手が出ないし、何を基準に選べばいいのかも分からない。そうしているうちに稲川さんのOM-2を手にすることになった。
 このカメラは露出優先の自動(シャッタースピード可変)で、ピントと巻上げは手動である。先日久方ぶりに家の近くで鉄道写真をとってみたが、手動巻上げだから1回に1枚しか撮れない(もちろん、場所と腕によるだろうが)。どうせ今後も写真を撮りに出かけることなどできないのだが、走ってくる電車をファインダーで追って2,3度シャッターを押しただけでも、30年前の思いが蘇ってきた。「不便」も悪くない。
 デジタルの世界はあいまいなものを切り捨てることによって成り立っている。それは極めて便利である。私自身、今後も仕事がらみで使うのはデジカメだろう。しかし、もともと日本の文化はあいまいなところ、数字にできない「行間」にこそ深い意味があったのではないか。もっと「不便さ」を見直してもいいように思う。あるいは、前向きに考えるなら、日本文化こそがデジタルとアナログの融合を実現していけるのではないだろうか。
 よく、外国人に「日本は最先端技術の国でありながら、昔からの独自の文化を残しているのが不思議だ」と言われることがあるが、そうであれば、明治時代に西洋文明を取り込み、葛藤しながらも独自の文化を維持し、逆に発展させてきたことが今日にも適応できるような気がするのである。
 ライブドアの問題で昨今もちきりだが、デジタルだけで人間社会がうまくいくはずがない。私たちはもっと「見えない部分」「行間」「不便さ」「不合理」を大事にし、楽しんだ方がいいように思う。
 OMー2に入っている27枚撮りのフィルムが撮り終わるのは春か、はたまた夏か分からないが、何かのついでにでも少しずつ写してみようと思っている。フィルムを巻き上げる感触を楽しみながら。

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