仏教と神道
昔ヨーロッパのどこかで、だったか、何かの用紙に「Religion(宗教)」という欄があり、はたと困った記憶がある。
私の場合お寺は曹洞宗である。家には一応ささやかな神棚があるのだが、仏教と書くべきか神道と書くべきか、悩んだ末に「Shintoと書いても分からないだろうから」という極めて不謹慎な理由で「Buddist」と書いた。
こんなことで悩むのも日本人ならではかも知れないが、およそ一神教の人には信じられないだろう。
あらためて考えると、自分にとっての「信仰」という意味ではやはり神道の方になるように思う。仏教は、私には宗教というより、一種の論理学に感じられる。それと荒木家の墓の問題はまた別の認識である。
まあ、神道でも仏教でも、というのは日本人の大多数の感覚なのだが、占領した米軍は何かカルトのようなものに思ったらしい。確かに、特攻というのは自分を殺すのだから、よほど狂信的な宗教が精神的な基盤になっているのだと思っても不思議はない。しかも、回天や桜花のような兵器では、一旦潜水艦や一式陸攻から切離されれば相手に当たろうが当たるまいが死は確実である。そして、そのために訓練を積まなければならないのだ。もちろん、断れないような雰囲気はあったにせよ、自分の判断で死を選んだということは欧米人には信じられなかったのだろう。しかし、そこには死生観という意味での宗教意識はあったにせよ、宗教によって死を選択したのではない。
ところで、私の勤務する拓殖大学には拓殖招魂社という神社がある。日露戦争における拓大関係者の物故者19名をはじめ、主に戦争で亡くなった学生、卒業生等の功績を後世(こうせい)に伝えるもので、昭和7年に建立された。
昭和20年12月 GHQの神道指令により招魂社は焼却させられた。このときは全国の学校からキリスト教以外の宗教施設がことごとく撤去された。キリスト教だけ残したというのもひどい話だが、招魂社が再建されるのは独立回復後、昭和30年になってである。このときは文京キャンパスにあったが、昭和57年には八王子キャンパスに移設された。今は広い八王子キャンパスの一角にある小山の上にある。拓大の八王子キャンパスは、私自身は見たことがないが奥の方に行くとイノシシがでるそうで、招魂社のある小山もちょっと別世界のようなところである。
考えてみると、日本は領土と人種と文化と言語と固有の宗教がほぼ重なる、おそらく世界でも極めて珍しい国だと思う。このために中にいる限り極めて居心地の良い空間であることは間違いない。神道は外人に布教することもない。私は「万邦無比」という言葉はあまり好きではないが、ある程度特殊性を認識しておいた方が、他国のことも客観的に見られるのではないかと思う。また、外国に対しても日本がどういう国かについてもっと知らせる努力が必要だろう。知らせる努力は同時に自分を見つめることにつながるからだ。
ちなみに、この次に「Religion」欄があったら「Shinto」と書こうと思っている。「それはどういう宗教だ?」と聞かれるとちゃんと説明できる自身はないのだが。
| 固定リンク