天皇という存在
こういうタイトルにすると、誰でも「富田メモ」の話だと思うだろう。それほどこの報道の波紋は大きかったということだ。
ところで、私は今回のことで、あらためてこの国の中で天皇という存在の重さを痛感した。これまで、皇室に冷淡であったと思えるメディアが取り上げ、「だからA級戦犯は分祀すべきだ」とか、「だから総理は靖国参拝すべきでない」という論拠に使っているからである。
もともと、皇室というものに価値を感じないのであれば、そもそもそんな議論にならないと思う。現行憲法第1条は「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く」となっているから、リベラル護憲派の皆さんも、やはり皇室の存在については極めて重く感じているということなのだろう。
それにしても、東京裁判をやった米国の、しかも、極めて左翼色の強かった当初の占領行政の中で押し付けられた現行憲法ですら、第1条に天皇の存在を持ってきたということの意味は大きい。色々な経過はあるにせよ、結局先の大戦を、「正義が勝った」ということにした米国ですら、本来その論理からすれば悪の根源であるはずの皇室をなくすことはできなかったということだ。
私は最近「護憲派」になっている。改憲するのは面倒だし、どうせ改憲しても完全な憲法などできるはずがない。さらに、今の憲法なら「米国が押し付けたもの」という理屈がつくが、改正してしまえば国民が責任を負わなければならない。それなら、努力目標位にして棚上げし、あとは安全保障基本法などの基本法によって補っていけばいいと思う。どのみち前文や9条などは現実から完全に乖離してしまっているのだから。
その意味では「9条の会」などリベラル・左翼護憲派の皆さんにはぜひ頑張って現行憲法堅持で突っ走っていただきたいものだ。それこそが憲法を空洞化させ、国民自らが憲法神話から脱却して自分の頭でものを考える基本になると思う。帝国憲法でも、「統帥権干犯問題」のように、条文を曲解し、錦の御旗にしようとした例はあり、私たち日本人はそういうものにとらわれやすい国民なのかも知れない。今こそそこから脱却するときなのだ。
もう一度、富田メモの話に戻る。戦争を止めるときも、結局昭和天皇の聖断に待たなければならなかったように、私たちは左右を問わず、最後は天皇にお任せするという他人(というのは失礼だが)任せの意識があるのではないか。尊重するのは当然としても、国家の政についてはもう少し自立した思考が必要だと思う。これは自戒の念も込めての言葉である。
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