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2007年1月28日

国連人権高等弁務官との面会で思ったこと

以下は「調査会NEWS」 464号(19.1.27)で発信したものです。

 既に報道されていますが、去る1月26日、内閣府でアルブール国連人権高等弁務官とお会いしました。基本的には家族会の皆さんと会うのが目的で、それに救う会と調査会(杉野常務理事と私)が同席した形でした。時間もなかったので私の方はポスターや英文の調査会紹介文書、パンフやしおかぜグッズなどをお渡ししただけなのですが、お話しを聞いていてなるほどと感じたことがありました。

 アルブールさんはカナダ人の女性裁判官で、お話しを聞く限りでは真面目な性格の方のように感じられました。それだけにはったりも言えなかったのでしょうが、国連が安保理を除いては各国の主権に踏み込めないこと、家族会側から指摘のあった食糧支援のモニタリングの問題なども、WFPがやっていることで自分たちにはアドバイスすること位しかできないことなどを言っていました。また、ここに来る前(あるいは前任地か、ちょっと聞き漏らしましたが)ネパールで失踪者
の問題を担当話をされましたが、ネパールでは何百人(何千人、だったか)もの失踪者がおり、その中にはマオイスト(共産主義者)が誘拐したものや政府機関が誘拐したものがいるとのことでした。

 お話しを聞いてみて、ネパールの問題も北朝鮮の拉致も、こういう仕事をしている人には同様の問題なのだろうなと感じました。結局、拉致問題への国際協力というのはこれくらいが限界ではないかと思った次第です。強制力がないので、基本的には決議などを繰り返して圧力をかけていくということでしょう。

 もちろん、それでもやった方が良いことは間違いないですし、北朝鮮にプレッシャーになっていることは事実です。また、国連があれだけの対応をしてくれるのは日本が大国だからでしょう。しかし、国際的な協力はあくまで周辺状況の整備に過ぎません。日本人拉致は基本的には日本と北朝鮮の主権に関わる問題ですから、やはり拉致問題を主権侵害、もっとはっきり言えば「戦争」として捉えないと被害者の救出はできませんし、これから先の日本を守ることもできないでしょう。

 安倍総理の所信表明演説には「戦後体制の見直し」が強調されました。それは高く評価すべきだと思
いますが、拉致問題にこれまで長年蓋をしてきたのも、まさに戦後体制です。このパンドラの箱は今日に至るまで、誰も開いていません。強いて言うなら、小泉前総理が何も知らずに開きかけて、わずかに端が見えただけで恐ろしくなって閉めてしまったというところでしょうか(それでも少しははみ出していますが)。

 、「戦後体制の見直し」には、今日まで基本的に敗戦国対戦勝国という関係で続いている日米関係を見直すことも必要不可欠なはずです。それは日米が敵対するということではなく、同盟関係は維持しても、占領時代から持ち越してきた関係は一度整理すべきではないでしょうか。ブッシュ大統領がヤルタ協定を批判し、日米関係が良好な今こそそこに手をつけるべきだと思います。一見このことは日米の関係であり拉致には関係ないように思われるかも知れませんが、私は前から「拉致問題の全貌が明らかになったとき、日本の現代史は書き換えを迫られる」と言ってきました。その根源はこの「戦後体制」の問題にあると思っています。

 本気で戦後体制の見直しに総理が切り込もうとするならば、自ら政権をつぶし、政治生命、場合によっては物理的生命まで捨てる覚悟が必要であるはずです。そして、それは総理のみならず、戦後体制からの脱却をしようとする者なら皆が覚悟しなければなりません。アルブールさんのお話しを聞いて帰り、「今後どう協力を求めたらいいのだろ」と思う一方で、そんなことが脳裏をよぎりました。

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2007年1月22日

試験問題

 先日、大学で担当している「韓国政治論」の講義で、次のような期末試験問題を出しました。

「君が日本国の総理大臣であったと仮定する。北朝鮮が『核開発を終え、ミサイルに核兵器を搭載した。日本がこれ以上制裁を続ければ相応の措置をとる』と発表した。どう対応するか」

 8つの問題のうちの一つを選べば良いという試験ですので、すべての学生が回答したわけではありませんが、結構面白い答えがありました。まだ、採点中なので、コメントはできないのですが、皆さんのお答えはどうでしょう。

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2007年1月17日

朝鮮屋

 多少自嘲気味な言葉だが、朝鮮半島を専門にしている人間を「朝鮮屋」という。役人もいれば研究者もいる。仕事の中で韓国や北朝鮮を中心的な対象にしている人間の総称である。
 朝鮮屋の世界は千差万別で、まったくまとまりがないのは対象地域の反映か。比較的共通しているのは、朝鮮屋が集まると大体北朝鮮か韓国の悪口になるということと、その一方で朝鮮屋でない人間からコリアの悪口を言われると気分が悪いということ。私もあちこちで「あれが悪い」「これがけしからん」というのだが、他の朝鮮屋の皆さんと一緒で、朝鮮屋をやめることはない。結局好きなのだろう。
 私にとっては韓国は、語学の勉強でいたのは僅か3か月なのだが、第二の故郷のようなもので、自分の国の次にどの国が好きかと言われれば、やはり韓国ということになる。ちなみに私がいたのは昭和53年9月から12月、延世大学の韓国語学堂(付属の語学学校、ときどき私を延世大に留学したと勘違いしてくれる人がいるが、延世大に籍をおいたことはない)で、3級上に黒田勝弘・現産経新聞ソウル支局長や武貞秀次・防衛研究所主任研究官、同じクラスに小林一博・東京新聞論説委員など、多士済々だった。外国人向けの韓国語学校は延世とソウル大くらいしかない時代だったので、当時韓国語を学ぼうという人の多くは延世に来ていたのである。
 このころの韓国は朴正熙政権の末期だったが、皆たくましく生きていた。「軍事独裁」などという暗いイメージとは全く異なるものだった。同世代の大学生に朴大統領のことを聞かれて「偉大な人だと思う」と言ったら、「変なやつだ」と言われた。結構みな勝手なことを言っていたのである。少なくとも共産圏の国々とは全く異なっていた
。そして「あと何年したら日本を追い越す」と、大学生は皆言っていた。ある意味青春ドラマを地でいっているような雰囲気で、新鮮だった。
 たくましく、と言えば 一昨年12月24日付の韓国有力紙「朝鮮日報」にこんな記事が載っていた(これについては拙著『内なる敵をのりこえて、戦う日本へ』でも書いている)。
「土曜連載 1930年代の朝鮮を散歩する」というシリーズの一つで、テーマは当時のクリスマスである。記事は次のように書いている。
「都心の巷では狂乱のお祭りが繰り広げられた。『土産クリスマス』と名付けられた歓楽の祭りである。『会費1円50銭、料理2種類、酒1瓶、美女50余名サービス   カフェ・ビーナス  クリスマスイブニング祝賀宴』という、当時の広告のコピーに見られるように、カフェ、バー、料亭などは先を争ってクリスマスの祝賀宴を開いた」
 面白いのは、日支事変勃発(昭和12年)後、総督府がクリスマス祝賀宴を禁止すると、「国威宣揚記念会」「南京陥落祝賀晩餐会」「皇軍戦勝大宴会」などと名前を変えて相変らず宴会だけはちゃんとやっていたという話だ。記事を読んでいて思わず吹き出してしまった。およそ「植民地支配に呻吟する朝鮮人」というイメージとは異なるが、こっちの方がはるかに現実に近いだろう。コリアンのジョークのセンスなども日本人とは異なる、天性のコメディアン的なものだ。
 20年くらい前のこと。旅行中列車の時間の都合で、午前1時だったか2時だったか、大田の駅で降りたことがある。駅前で朝まで過ごしたのだが、駅前の旅館のおばさんがやってきて「可愛い女の子がいるよ」と盛んに声をかける。しつこいので「ナヌン・シンゴウン・サラミニカ…」と言って断った。僕は水っぽい(意訳すれば面白みのない、物足りないあたりか)人間だから、という意味で、我ながらうまい切り返しだと自分で悦に入ったのだが、おばさんは少しもひるまず「シンゴウニカ・カンジャグル・タヤジ」(水っぽいから醤油を足さなきゃいけないでしょう)とやり返した。こんなところのおばさんでもこういう切り返しができるのかと、妙に感心した次第。
 話が逸れたが、まあ、こんなことで私たちは朝鮮屋をやめられないのだろうと思う。なお、このおばさんの切り返しにもめげず、私は大田駅で朝まで過ごしました。念のため。

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2007年1月13日

2人の指導員

以下は「調査会NEWS」 461号(19.1.12)で発信したものです。

 昨日、「蓮池薫さんの拉致に関して北朝鮮対外情報調査部の指導員2人が拉致の実行を指示していたことが警察当局の調べで分かった」との報道がありました。

 このニュースを聞いて最初に思ったことは、「何でこんな話が今頃出てきたのだろう?」という素朴な疑問です。この話が事実だった場合、警察が北朝鮮に行ってその指導員や、蓮池さんにそう語った現場を目撃した人に事情聴取したわけではありません。従ってこの報道の元ネタは蓮池薫さんがそう言った以外に考えられません。彼は「すでに政府には全部話した」と、はるか昔から言ってきました。そうすると、警察はこのことを知っていて今まで隠していたことになります。あるいは、今ごろになって蓮池さんはこんなことを思い出したのでしょうか。

 また、この報道では、拉致の標的は祐木子さんであり、蓮池さんは一緒にいたので、ついでに拉致してきたということになっています。だとすると祐木子さんは北朝鮮で女性工作員の日本人化教育を担当していたことになります。担当していた工作員は金賢姫以外のまだ名前が出ていない人でしょう。ならば北朝鮮はなぜそんな人を返したのでしょうか。

 北朝鮮が死んだとしている拉致被害者は大部分が工作機関の中で目撃されていたり、工作員が捕まって自白した人です。北朝鮮が帰国させる人間を選ぶ中で、拉致が国家目的に基づく行為であるという証明になる人間は皆死んだことにしてしまっているのです。それでも返した人はほとんど重要な工作活動に関与していないか、していたとしても絶対にしゃべらないと北朝鮮側が信頼(それはいわゆる「信頼」ではなく、しゃべれないだけの条件を作ったということ)した人なのではないでしょうか。帰国当時、私は救う会の事務局長で蓮池さんとともに柏崎に行き、蓮池さんの実家に泊めていただきました。そのときの感触では、蓮池薫さんはともかく、祐木子さんがその種の機密事項を抱え込んでいるようには見えませんでした(もちろん、話していないことは色々あるはずですが)。

 調査会のマッピングリストを見ていただいて分かるように、アベックないし夫婦での拉致・失踪はその大部分が1970年代に起きています。これは明らかに当時の北朝鮮には男女で連れてくるという方針があったということです。それはおそらく2人で連れてくれば精神的に安定し、いうことを聞くだろうと思っていたからでしょう。仮に行き当たりばったりの拉致だった(そんなことは有り得ませんが)とすれば、わざわざ2人分の装備を準備してやるなどということはないはずです。したがって、祐木子さんを連れて行こうとしたときにたまたま蓮池薫さんがいたということは有り得ません。さらに言えば、女性の工作員は相対的に数が少ないのですから、工作員の日本人化のために拉致をするなら、その数も当然男性の方が多いはずです。女性だけをねらったというのもやはり辻褄が合いません。

 非常にひねくれた見方かも知れませんが、私にはこの発表が、昨年末の「週刊現代」の記事を否定するために出されたものではないかという疑念が消えません。一部報道機関には「今後、拉致の指揮命令系統の捜査が進むほど、金正日総書記の『(拉致は)特殊機関の一部が妄動主義に走った』との説明を突き崩すことにつながる」との見方もあるようですが、拉致が国家目的で行われたことは、指揮命令系統の捜査などしなくても明らかなことであり、逆にそんなことを突きつけたところで北朝鮮が「参りました」というはずはありません。重要な進展のように思われる人もいるかも知れませんが、私にはどうでも良いこと(と、言ったら言い過ぎでしょうか)とすら思えるのです。あるいはこの発表には、もっと重要なことを隠さなければならないという、別の意図があるのでしょうか。

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2007年1月10日

弥生慰霊堂

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 昨年9月9日付の本ブログで、警察殉職者の慰霊施設に行ってみたいと書いたが、1月9日にその施設を訪れることができた。4か月もたってやっとなのだから、あらためて自分のいい加減さを実感するが、行ってみて正直なところ驚いたのである。
 私が訪れたのは「弥生慰霊堂」という、警視庁及び東京消防庁の殉職者が祀られた慰霊施設である。警察庁は行政官庁だから、警察の慰霊施設は県警毎にあるそうだ。
 弥生慰霊堂は皇居北の丸公園の中、地下鉄九段下駅から最も近い田安門の裏側にある。地下鉄の出口から地上に出てものの3分ほどのところである。靖国通りを隔てて靖国神社があり、こちらはたびたび行っているのに、警視庁の人に教えてもらうまで、向かい側にそういう施設があることは全く知らなかった。
 インターネット百科事典「Wikipedia」によれば弥生慰霊堂の由来は次のようなものである。警察官の慰霊施設は明治18(1985)年、現在の文京区内に創建された「招魂社」という神社だった。この招魂社は警視庁の管轄で戦前何度か移転したが、敗戦によって進駐した連合国の「神道指令」で警察による管理ができなくなったため、昭和22(1947)年に有志が弥生廟奉賛会を組織し出資して現在の地に「弥生廟」として建立された。この時点では神社ではなかったが慰霊行事は神道式でやっていた。
 その後昭和58(1983)年に名称を弥生慰霊堂と変更、奉賛会も「弥生廟奉賛会」から「弥生奉賛会」として慰霊行事も無宗教のものとして現在に至っている。何らかの理由があってのことだろうが、写真を見ていただければ分かるように、鳥居はないものの作りは完全に神社のそれである。Vfts0009
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 ここまでの作りにしていて、無宗教というのも違和感を感じるが、それ以上に不可解だったのは、何も由来を書いたものがないことだ。祀られている人の名前どころか、何の慰霊をするところかすら分からないのである。北の丸公園の地図には「弥生慰霊堂」とすら書かれていない。写真を見ていただいて分かるように「昭和天皇野点所」とあるだけだ。これは、弥生廟ができる前の昭和5年、昭和天皇が関東大震災の復興状況を視察されたときの記念の場所で、その石碑があるからなのだが、この石碑が書かれていて弥生慰霊堂の記載がないというのは不思議だった。何かの経緯があってそうなっているのだろうが、それにしてもこれでは殉職された方々に対して何とも失礼だ。せめてこの施設の由来とお名前だけでも刻んだ石碑を建てることはできないのだろうか。
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 もちろん、そうしたところで亡くなった方が帰ってくるわけではないのだが、公のために殉じた人々の存在を思い、敬意を払うことは生きているものとしての当然の努めだろう。私自身は拉致問題を通して警察も批判してきたし、これからも批判すべきところはしていくつもりである。また、最近警察は相次ぐ不祥事で信頼を失っていることも事実だろう。しかし、大多数の方々は厳しい条件の中で日夜職務に精励しているのであり、そして中にはその職務中に命を落とす人もいるのだ。この点は消防関係者も同様で、「平和憲法」に守られている自衛隊とは全く異なる。
 靖国神社に参拝される方、武道館に来られた方はぜひこの弥生慰霊堂にも立ち寄っていただきたい。また、各県には県警毎に同様の施設があるはずである。そこには「公」のために、家族を残して殉じた方々が祀られており、それがあるからこそ私たちの安全が保たれているのである。
 

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2007年1月 8日

安倍訪欧・山拓訪朝

(以下・1月8日付調査会ニュース458号で発信したものです)

  明日9日から安倍晋三総理は訪欧の途につきます。そして、その一方で山崎拓・自民党元副総裁は北朝鮮を訪問します。両者にあまり関係はないようですが、新年早々ですので一言。
 今後朝鮮半島情勢が流動化すれば、NATO(北大西洋条約機構)の役割に注目が集まる可能性があります。金正日体制の崩壊後、無政府状態のようになった場合は、秩序の維持のために一時的な軍事介入が必要になる可能性もあるからです。大規模な戦闘状態になる可能性は少ないので、かつてのカンボジアPKOのような形で短期間に限定されるでしょうが。
 韓国にとって北朝鮮は憲法上自国領土です。従って本来は韓国がリーダーシップをとって統一にもっていかなければならないはずですが、現政権にそのような意識はおよそ存在しません。かといって中国が進駐すれば日米を、日米が進駐すれば中国を刺激することは間違いなく、利害関係国の進駐は地域全体の緊張を高めます。そのようなとき、NATOの、米国以外の国によって短期的な平和維持活動を行い、最終的にもう少しまともな政権ができた後で大韓民国としての統一へとつなげるというのが、比較的トラブルの少ない対応の仕方ではないか
と思います(なお、拉致被害者の救出に自衛隊を使うことは国民の生命を守るための行動であり、これとは全く別次元の問題です)。
 ちなみに時折、「統一されれば一大反日国家ができるのではないか」と懸念する人がいますが、南の反日は極めて皮相的なものですし、北朝鮮は南よりはるかに反日感情が弱いので、私はその懸念はほとんどないと思っています)。
 私自身は一昨年NATO本部を訪れた折、対応してくれた広報担当者の方に北朝鮮崩壊時のNATO進駐の話をしたことがあります。アフガニスタンはともかく、朝鮮半島については全く想定外だったようで、面食らっていましたが、そろそろ具体的な相談に入っても良い時期だと思います。安倍総理は今回ベルギー訪問の折、NATOで講演する予定になっています。この機会にそのような話も出てくれたらいいのですが。
 ところで、そういう次元の話と比べると、極めて怪しげなのが「山拓訪朝」です。山崎氏は昨年12月、小泉前首相との会談で第3次訪朝の話をしたとのがニュースで流れましたが、どう考えても胡散臭い感じが拭えません。
 かつて山崎氏が中国で鄭泰和・日朝国交交渉担当大使と会ったのは平成16(2004)年4月のこと。その前年末には平沢勝栄代議士らがやはり鄭泰和大使と中国で会っており、この流れとが山崎訪中につながりました。当時は北朝鮮への制裁の動きが進んでおり、このルート以外でもNGOや北朝鮮とつながりのある個人など、様々なルートを使って北朝鮮側は事態打開を模索していました。当時私は「何でこんな昔の関係まで総動員してやっているんだろう」と、非常に不思議に思ったものですが、その後に行われたのが小泉第2次訪朝と帰国者5人の家族の帰国でした。
 北朝鮮というのは極めてワンパターンの国ですから、おそらく今も似たような状況なのだと思います。いくら強がりをいっても経済制裁はかなり効果を上げており、米国や中国とも関係改善の見通しは立たない。ともかく何でもいいから手をうたなければならないということで、「拉致被害者を何人か帰す準備がある」とか、「政府が認定していない拉致被害者を返してくる」など、様々なアドバルーン、あるいは餌をちらつかせて誘惑しているのでしょう。そこで「誘惑」に一番弱い人が北朝鮮に行くことになったというところではないのでしょうか(どうせならそのまま北朝鮮に残って拉致被害者が全員帰るま
で居座ってもらえばいいのですが)。
 それはともかく、この問題は原則論以外の最終的解決はありません。身寄りがなかったり、ご家族が名乗り出なかったりで、誰も拉致と気づいていない人まで私たちは救出しなければなりません。そのためには北朝鮮の体制変更が必要不可欠です。また、体制が変わらなければ帰国者や北朝鮮の一般住民の人権問題改善も実現しません。小手先の策を弄せずに、正面から問題を解決していくことこそが最も近道であるはずです。

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