朝鮮屋
多少自嘲気味な言葉だが、朝鮮半島を専門にしている人間を「朝鮮屋」という。役人もいれば研究者もいる。仕事の中で韓国や北朝鮮を中心的な対象にしている人間の総称である。
朝鮮屋の世界は千差万別で、まったくまとまりがないのは対象地域の反映か。比較的共通しているのは、朝鮮屋が集まると大体北朝鮮か韓国の悪口になるということと、その一方で朝鮮屋でない人間からコリアの悪口を言われると気分が悪いということ。私もあちこちで「あれが悪い」「これがけしからん」というのだが、他の朝鮮屋の皆さんと一緒で、朝鮮屋をやめることはない。結局好きなのだろう。
私にとっては韓国は、語学の勉強でいたのは僅か3か月なのだが、第二の故郷のようなもので、自分の国の次にどの国が好きかと言われれば、やはり韓国ということになる。ちなみに私がいたのは昭和53年9月から12月、延世大学の韓国語学堂(付属の語学学校、ときどき私を延世大に留学したと勘違いしてくれる人がいるが、延世大に籍をおいたことはない)で、3級上に黒田勝弘・現産経新聞ソウル支局長や武貞秀次・防衛研究所主任研究官、同じクラスに小林一博・東京新聞論説委員など、多士済々だった。外国人向けの韓国語学校は延世とソウル大くらいしかない時代だったので、当時韓国語を学ぼうという人の多くは延世に来ていたのである。
このころの韓国は朴正熙政権の末期だったが、皆たくましく生きていた。「軍事独裁」などという暗いイメージとは全く異なるものだった。同世代の大学生に朴大統領のことを聞かれて「偉大な人だと思う」と言ったら、「変なやつだ」と言われた。結構みな勝手なことを言っていたのである。少なくとも共産圏の国々とは全く異なっていた
。そして「あと何年したら日本を追い越す」と、大学生は皆言っていた。ある意味青春ドラマを地でいっているような雰囲気で、新鮮だった。
たくましく、と言えば 一昨年12月24日付の韓国有力紙「朝鮮日報」にこんな記事が載っていた(これについては拙著『内なる敵をのりこえて、戦う日本へ』でも書いている)。
「土曜連載 1930年代の朝鮮を散歩する」というシリーズの一つで、テーマは当時のクリスマスである。記事は次のように書いている。
「都心の巷では狂乱のお祭りが繰り広げられた。『土産クリスマス』と名付けられた歓楽の祭りである。『会費1円50銭、料理2種類、酒1瓶、美女50余名サービス カフェ・ビーナス クリスマスイブニング祝賀宴』という、当時の広告のコピーに見られるように、カフェ、バー、料亭などは先を争ってクリスマスの祝賀宴を開いた」
面白いのは、日支事変勃発(昭和12年)後、総督府がクリスマス祝賀宴を禁止すると、「国威宣揚記念会」「南京陥落祝賀晩餐会」「皇軍戦勝大宴会」などと名前を変えて相変らず宴会だけはちゃんとやっていたという話だ。記事を読んでいて思わず吹き出してしまった。およそ「植民地支配に呻吟する朝鮮人」というイメージとは異なるが、こっちの方がはるかに現実に近いだろう。コリアンのジョークのセンスなども日本人とは異なる、天性のコメディアン的なものだ。
20年くらい前のこと。旅行中列車の時間の都合で、午前1時だったか2時だったか、大田の駅で降りたことがある。駅前で朝まで過ごしたのだが、駅前の旅館のおばさんがやってきて「可愛い女の子がいるよ」と盛んに声をかける。しつこいので「ナヌン・シンゴウン・サラミニカ…」と言って断った。僕は水っぽい(意訳すれば面白みのない、物足りないあたりか)人間だから、という意味で、我ながらうまい切り返しだと自分で悦に入ったのだが、おばさんは少しもひるまず「シンゴウニカ・カンジャグル・タヤジ」(水っぽいから醤油を足さなきゃいけないでしょう)とやり返した。こんなところのおばさんでもこういう切り返しができるのかと、妙に感心した次第。
話が逸れたが、まあ、こんなことで私たちは朝鮮屋をやめられないのだろうと思う。なお、このおばさんの切り返しにもめげず、私は大田駅で朝まで過ごしました。念のため。
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