« 「諸君!」の拙稿について | トップページ | 6者協議 »

2007年2月 4日

大森勝久氏のホームページ

 このたび、大森勝久さんのホームページを立ち上げました。(http://1st.geocities.jp/anpo1945/
お名前を覚えている方も少なくないと思いますが、昭和51(1976)年3月、札幌市の北海道庁でおきた 爆破事件の犯人として捕らえられ、死刑判決を受けた人です。自分でホームページを作るのはブログを別にすればしばらくやっていなかったので、極めて簡単な作りですが、ぜひご一読下さい。「荒木が何で?」と思われる方もおられると存じますが、私は大森さんとのやりとりの中で、ぜひご本人の論文を大森勝久の名前で世に出したいと思いました。以下はそのホームページの中で「大森勝久さんのこと、そしてこのホームページについて」と題して書いた内容(途中から)です。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
 大森さんは昭和47(1972)年に岐阜大学を卒業し、アイヌ問題に取り組むため北海道に移住しました。セクトには属さなかったものの、かなり過激な思 想をもつ左翼活動家でした。そして、道庁爆破事件で犯人とされ逮捕、昭和58(1983)年3月に札幌地裁で死刑判決が下されました。昭和63 (1988)年1月札幌高裁で控訴棄却、平成6(1994)年7月に上告が棄却され、いったん死刑が確定しました。

 その後平成14(2002)年7月に再審請求が行われ、平成18(2006)年度中にも再審を開始するかどうかを決める札幌地裁の決定が下される予定で す。

 既に30年間拘置所にいて、家族以外とは面会ができない大森さんと私の接点はホームページでした。大森さんは拘置中に転向し、思想的には反共の闘士とな りました。もちろん行動はできないものの、平成11(1999)年5月から、渡辺隆のペンネームで小冊子『日本と自由世界の安全保障』を配布し、平成14 (2002)年4月からは、同名のホームページで自らの考えを発信し続けてきました。

 そのホームページに接したのがきっかけで、私は奥様を通して文通するようになりました(家族以外は現在文通もできません)。そして、その論考を読みなが ら、「これは実名をもって世に出すべきだ」と考えました。私自身は大森さんは無罪だと思いますが、一時期法廷で道庁爆破事件を支持する発言をしたことなど がやはり判決には影響したものと理解しています。

 70年安保の時代は特に青年・学生層にはマルクス・レーニン主義が一種の熱病のように伝染していった頃であり、少なくとも大学生や高校生であれば左翼を 気取らないとまともに見てもらえないような雰囲気がありました。その中で純粋な人であればあるほどのめり込んでいった、大森さんもその1人だったのではな いでしょうか。その思想を選んだのは本人の責任ですが、左翼思想の犠牲者であることは間違いありません。

 転向をするにあたってはおそらく相当な葛藤があったと思います。しかし、だからこそ大森さんの論考は極めて鋭く、この国の近現代史を見つめ直す上でも重 要 な視点を提供してくれているのです。私自身、すべてが私の意見と同じというわけではありませんが、非常に多くのことを教えられています。そこで、無理をお 願いして、このような形でホームページを立ち上げさせていただいた次第です。このことが再審請求にマイナスにならないことを祈るばかりですが、ともかく本 件についての責任はすべて私荒木が負うべきものであることを、この場をお借りして申し上げておきます。

 共産主義、あるいはマルクスレーニン主義という思想との戦いは、冷戦が終わっても終結していません。というより、私たちが勝手に終わったと理解していた 冷戦は実は終わっていなかったのです。私たちはあらためて覚悟を決め、20世紀最大の罪悪であった共産主義思想と、戦わなければなりません。大森さんの論 文はそのための武器です。ぜひ、1人でも多くの方がお読み下さいますよう、心よりお願い申し上げます。

|

« 「諸君!」の拙稿について | トップページ | 6者協議 »