人殺しの練習
上田清司・埼玉県知事の新規採用職員就任式でのあいさつが一部マスコミを賑わしている。「自衛官は平和を守るために人殺しの練習をしている。国民の生命と財産を守るため。偉いと褒めたたえなければならない」というものである。この「人殺しの練習」が問題になったわけだが、あえて言いたい。これは本当のことである。表現に多少の問題はあったかも知れないが、この言葉は知事が真面目に国家の安全保障を考えている証拠である。
おそらく、「人殺しの練習」と言われれば現職自衛官でも顔をしかめる人がいるだろう。しかし、私たち予備自衛官でも年間27発の実弾射撃をするわけだが、あれは別にイノシシを撃つ訓練をしているわけではない。あたるかどうかはべつとして、明らかに人を撃つ訓練である。軍を「自衛隊」と呼び代えようと、「歩兵」を「普通科」、「工兵」を「施設科」と呼び代えようと、その保有する兵器は最終的には敵を倒すために使うのである。射撃の競技でもやって、勝った国が相手の領土を取るとでもいうならともかく、世界中で地域紛争やテロが起きている現状は決してそのような牧歌的な風景を許すものではない。
このブログでも前に書いたが、安明進氏はかつて「軍隊というのは結局人を殺すためのものですよ。国を守ると言っても、相手を倒さなければならないのだから」と言った。通訳をしながら考え込んでしまったが、この本質は誰も否定できないだろう。逆に考えれば、その本質から目をそらさない人間こそ、本当に平和を守ることができるはずだ。
同じ武器を持つ集団でも軍隊と警察はその性格を全く異にする。警察には「警察比例の法則」というのがあり、敵と同等の武器を持つことしか許されず、しかも使い方はあくまで防御的である。法を執行するために仕方なく使うというのが警察における武器使用の本質である。それに比べて軍隊は敵を制圧することが目的なのだから、当たり前のことだが攻撃的である。また、そうでなければ戦うこと、すなわち国家国民を守ることはできない。
上田知事とは3月31日に朝霞で行われた陸上自衛隊中央即応集団の編成完結祝賀会でお会いしたばかりである。このときは自衛隊のみ鳴らずわが国にとって極めて重要な部隊の創設であるにもかかわらず防衛大臣を除いて国会議員は2人しか参加していなかった。式典のとき、江畑健介先生と隣り合わせになったが、国会議員が少ないことを呆れておられた。私は「この部隊ができたことがどういう意味なのか分かる政治家がいないんですよ」と言ったのだが、知事は祝賀宴での挨拶も堂々としていた。
また、上田知事は昨年12月16日に同じ朝霞の陸上自衛隊広報センターで行った「しおかぜ」の公開録音にも参加し、拉致被害者へのメッセージを語ってくれた。「戦争反対」「命どぅ宝」と語るのは簡単だ。しかし県知事であればそんな絵空事より、どうすれば県民の安全が維持されるか、有事の際により少ない被害に食い止められるかを考えるべきであり、上田知事の発言は、表現の問題はあれ、知事が政治家の本筋に忠実な人であるからこその言葉である。言葉の揚げ足取りをする人間の方がよほど平和に対して無責任だと思う。
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