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2008年10月31日

田母神空幕長更迭

 田母神俊雄航空幕僚長が本日更迭 されました。理由はAPAグループの懸賞論文で「日本は侵略国家であったのか」として過去の歴史を評価したのが1995年の村山談話を逸脱するというのが理由だそうです。

 空幕長はおそらくそのような処分が下されることを承知の上で書いたのだと思いますが、それにしても、こういうことを堂々と論じられる人は本来自衛隊にとって宝であるはずであり、首を切るとは何事か、と思わざるを得ません。そもそも、村山談話が間違いなのであり、それを直すことが政府の責任のはずです。「王様は裸だ!」と言った子供の口を慌てて塞いで「いえ、王様は素晴らしいお召し物を着ていらっしゃいます」というような行いは容認できません。

 私は予備自衛官・自衛官OBで作る「予備役ブルーリボンの会」の一員ですが、田母神空幕長はこの発足にあたって素晴らしいメッセージを送って下さいました。以下ご紹介します。私ではご迷惑かも知れませんが、できるだけのご支援をしたいと思っています。

【予備役ブルーリボンの会発足お祝い文】

 予備役ブルーリボンの会、発足おめでとうございます。

 皆さんご存知のとおり、各国の軍事力・防衛力は現役兵力ばかりでなく、予備役の能力も含めて評価されます。日本においては、予備自衛官等の方々の力がそれにあたるわけで、皆さんの存在をたいへん頼もしく思っています。

 さて、私は常々、自衛隊は日本の武士道の精神を受け継ぐ素晴らしい組織であると内外で主張しておりますが、謡曲などで次のような話が伝えられています。鎌倉時代に、佐野源左衛門尉常世(さのげんざえもんのじょうつねよ)という武士がいました。彼は貧しい生活をしていましたが、執権であった身分を隠して旅の僧として全国廻向していた北条時頼に宿を貸し、大切にしていた鉢の木を焚いて暖をとらせる等精一杯もてなし、「自分は貧しい生活をしているが『いざ鎌倉』となれば直ちに駆けつけるつもりだ。」との決意を語りました。そして、実際に「いざ鎌倉」という場面が訪れると、真っ先に駆けつけその心意気を示したのです。予備自衛官等の方々は、平素は民間でそれぞれご活躍されながら、地道に訓練も重ね、一朝有事にはいち早く駆けつけようとする心構えを持たれ、まさにこの佐野源左衛門尉常世の武士道精神を体現されているものと、心から敬意を表します。

 自衛官は、事に臨んでは危険を顧みず、我が国の平和と独立を守る使命を完遂していかなければなりませんが、その使命感の根源は我々の身の回りの人々、顔の見える一人一人の国民を守る、という気概であると考えます。そして、それが強ければ強いほど、自衛隊は精強となります。この度予備役ブルーリボンの会に入会された方々は、北朝鮮に拉致された国民の方々及びそのご家族の悲しみ、苦労、憤りに思いを致し、救出を応援しようとする姿勢を示されたのであり、それはまさにこの気概を体現したものです。その心意気は自衛隊の精強性を内外に示すものです。どうぞこれからもその気概を持って、我々現役とともに我が国の平和と独立を守る自衛隊の崇高な使命を果たすべく、ますます精進していきましょう。

 予備役ブルーリボンの会のご発展を祈念しております。

   平成20年8月2日 
            航空幕僚長 空将 田母神 俊雄

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1000番台リスト追加

※昨日の記者会見で発表した内容です。
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平成20年10月30日

1000番台リスト第14次発表にあたって

特定失踪者問題調査会代表 荒木和博

 調査会ではこれまで拉致の可能性が高いのではないかと推定されても、情報源について公開できないもの、情報の検証が不可能なものなどは1000番台リスト(北朝鮮による拉致の可能性が高い失踪)としての発表を控えてきた。

 しかし、少しでも情報を明らかにすることがより新たな情報の収集につながることにも鑑み、今回もう一度各案件の見直しを行い、その一部を1000番台リストとして新たに発表することとした。これ以外にも状況証拠などから拉致の可能性を疑わせるものは存在する。調査会のリスト全体がそうとも言えるのであり、例えば今回はまだ入れていないが昭和40年代の印刷関係失踪者(小林栄さん、早坂勝男さん、横田道人さん、江藤健一さんら。1000番台リストでは日高信夫さんがいる)やリストの中に<参考>として記してある1980年代半ば、1990年代初めの女性の失踪などは注目に値すると思われる。

 また、それ以外でも失踪状況からして現時点で拉致の疑われるケースは公開の失踪者(ゼロ番台リスト)の中でも30人以上おり、今後非公開失踪者も含めてさらに各案件の見直しを行い、逐次発表していく予定である。調査会の作業能力からして、すべてを一律に調査して一挙に発表することは難しいので、今回の14次発表はあくまで中間報告ととらえていただきたい。

 今回の発表については、32人という大量の発表であり、私たちにも逡巡があったことは否めない。しかし、金正日の病状や米国の対北朝鮮テロ支援国指定解除など事態がきわめて流動的な状態で、ともかく主体的に行動する必要があると考え決断した次第である。
今こそ我が国政府が主体的に動いて拉致被害者の救出を実現しなければならない。北朝鮮当局が心を入れ替えるのを待っていたり、アメリカ頼みを続けていても状況は変わらない。今回の発表の意味を各界各層の方々がお汲み取りいただき、被害者救出のため共に闘っていただくようお願いする次第である。
                          以上
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1000番台リスト第14次発表
平成20年10月30日
特定失踪者問題調査会

(1)宮澤康男さん(昭和17年10月20日生まれ 昭和35年9月21日 都内で失踪 当時17歳 会社員)

 東京都台東区上野の勤務先(製パン業者)の宿舎から失踪。不確定ではあるが複数の目撃証言がある。

(2)藤田慎さん(昭和6年9月5日生まれ 昭和35年 都内で失踪 当時29歳 会社員)

 長兄に「旅行に行く」と新品の靴を借りに来る。次兄夫婦には、「結婚したい人がいる」と相談。また、弟にお金を借りに来る。その後音信不通。失踪から数年後、兄夫婦宅(川口市仲町)に年賀状が届く。字体は達筆(本人の字体に似ていた)。差出人の名前がなかった。消印は世田谷だったようである。昭和51年2月7日、埼玉県川口市で失踪した藤田進さん(次に挙げる新潟の藤田進さんとは別人)のおじにあたる。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(3)藤田進さん(昭和23年3月25日生まれ 昭和40年3月26日 新潟県青海町で失踪。当時17歳 高校生 すでに1000番台リストになっている埼玉県の藤田進さんとは別人)

 自宅から徒歩15分ほどの映画館で開かれる演奏会に、一人で歩いて出かけた。猛吹雪だった。学生服の上にブルーのアノラックを着ていた。この3年後に県境を越えた富山県の入善町で屋木しのぶさん、朝日町で水島慎一さんが失踪(ともに1000番台リスト)しているほか、同時期男子高校生の失踪が多い。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(4)七條一さん(昭和23年8月22日生まれ・昭和45年2月10日 石川県金沢市で失踪 当時21歳 大学生)

 北陸方面を旅行。8日に能登を回って西宮市の母の実家に立ちより、徳島に帰る予定で、金沢市のユースホステルを出発し、輪島市で宿泊。9日「能登を回ってバスが遅れ、大阪行きの汽車に遅れた」と同じ金沢市のユースホステルに再度宿泊。10日朝出発し、以後消息不明。「雪が降っていたので兼六園の雪景色を見てくると言って10センチ位積もった雪の上を堤防の方に向かって歩いて行った」という証言と「東尋坊・永平寺に回ると言って宿を出る」という証言がある。2月10日は夕方のフェリーで西宮市の母の実家から祖父母を徳島に連れて帰り、翌日行われる法要に出席する約束をしていた。事前に東京の下宿から西宮の母の実家に法要出席のための背広を送ってあった。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(5)三浦和彦さん(昭和27年3月28日生まれ 当時21歳)・(6)波多野幸子さん(昭和30年2月14日生まれ 当時18歳・同じ会社に勤務 昭和49年1月12日 福岡県志摩町で失踪)

 二人は会社の同僚。当日会社に出勤。三浦さんは退社前に同僚に前原に行くと告げ、波多野さんの残業が終わるのを待ったと思われる。12日から帰宅せず。15日、福岡県糸島郡志摩町芥屋大門近くの海岸に車が放置されているのが見つかる。車内に三浦さんの免許証、コートが置かれたまま。両人の靴が片方ずつ落ちていた。
 1970年代は男女での失踪が集中して起きている。波多野さんについては不確定な目撃情報がある。

(7)山下春夫さん(昭和21年3月25日生まれ・昭和49年8月17日 福井県小浜市で失踪 当時28歳 造船会社勤務)

 8月16日会社近くで夕涼みを兼ねて夜釣りに行くと出かけたまま失踪。本人の作業靴が発見されている。失踪2か月前に小浜市の岡津(おこづ)海岸から高敬美・剛姉弟が連れ出されたとされる。後述の山下貢さん、宮内和也さん、林雅俊さんも近隣地域からの失踪だが、この地域は過去も現在も頻繁に工作員の出入りが行われている地域である。

(8)萩本喜彦さん(昭和15年1月2日生まれ 昭和50年4月4日 兵庫県高砂市で失踪 当時35歳 会社員)

 夜勤で自宅から会社へ自転車で向かう途中失踪。お金も持たず仕事着のまま。失踪後無言電話や不審な電話があり不審な葉書が届く。元工作員金東赫氏が昭和50年8月に平壌サーカス劇場で目撃したとの証言をしている。

(9)峰島英雄さん(昭和27年9月2日生まれ 会社員)・(10)関谷俊子さん(昭和32年5月19日生まれ 高校生)・(11)遠山常子さん(昭和32年6月22日生まれ 高校生 昭和49年7月11日 千葉市で失踪)

 遠山さんと友人の関谷さん、ならびに関谷さんの親戚である峰島さんの3人は、千葉市内の飲食店で食事をした。峰島さんが、「二人を家まで送ってくる。戻ってくるから、食事を用意しておいてくれ」と言い残し、車で飲食店を出たまま三人とも失踪。峰島さんの車も未発見。失踪の当日は、関谷さんの引越しの日だった。引越しが終わったあとに、三人で飲食店に食事に来た模様。失踪以降、何ら手がかりとなるものは無かった。関谷さん、遠山さんについては北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(12)寺島佐津子さん(昭和35年7月26日生まれ・昭和54年8月10日 神奈川県横浜市で失踪 当時19歳 銀行員)

 失踪当日、勤務先の支店の親睦会で鎌倉の花火大会に行き、夜10時に現地解散。同僚と鎌倉駅で別れ、戸塚駅からバスで帰宅途中に行方不明。翌日、自宅近くの草むらからセカンドバッグが見つかる。

(13)小久保稔史さん(昭和22年8月1日生まれ・昭和55年1月13日 京都府舞鶴市で失踪 当時32歳 船員)

 東舞鶴のスナックを一人で出て失踪。午後7時に「パチンコ屋の横から」と言って自宅に普通の口調で電話をしている。船室もそのままだった。コートも置いてあった。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(14)長尾直子さん(昭和35年10月25日生まれ・昭和56年3月16日 北海道札幌市で失踪 当時20歳 自動車学校事務員)

 いつも通り出勤したがすぐに傘を取りに引き返してきた。会社に着いたと思われる頃会社から出勤していないと連絡。普段は会社から日に1、2回電話してくる。夜になっても連絡なし、心当たりもあたったが分からず。翌日捜索願。身の回りのものは手つかずで、預金を下ろしたりもしていない。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(15)松本重行さん(昭和10年7月25日生まれ・昭和58年10月17日 京都府舞鶴沖で失踪 当時48歳 漁船員)

 漁船「照和丸」で刺し網漁業中に行方不明。船は同日無人の状態で漂泊していたのを発見される。べた凪、転落しにくい船の構造、ベテラン漁師であることを考えると、転落は有り得ない。たとえ転落しても、水温も高く自力で船に戻れるはずであり、遭難しても大掛かりな捜索から遺体が発見されたはずである。出港直後、不審な船が接近している。京都府の東端に位置し、北朝鮮絡みの事件が多発する地域に隣接する。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(16)西安義行さん(昭和40年6月27日生まれ・昭和62年3月15日 京都府綾部市で失踪 当時21歳 無職)

 友人と舞鶴方面へドライブ。帰り道、綾部駅前で友人と別れた後失踪。度々、舞鶴に出かけていた。当日はいつになく、服装を気にしていた。綾部で降車する理由が見当たらず、舞鶴線で舞鶴に引き返した可能性が高い。失踪後、不可思議な電話が連続した。失踪後1年ほどして、名古屋中央郵便局消印で、該当者のいない電話番号入りの葉書が届く。1998年頃、不審な車が西安家の様子を伺い、周辺に聞き込みを行った。北朝鮮からの未確認情報がある。

(17)林かな子さん(昭和35年9月7日生まれ・昭和60年11月22日 都内で失踪 当時25歳 会社員)

 会社の上司に「風邪気味なので21、22日両日休ませて欲しい」と了解を求めて休み、そのまま失踪した。ほとんど何も持たず普段着姿で出かけた模様。失踪の数日前母親に「トイレットペーパーを買っておいて」と言っていた。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(18)尾上民公乃さん(昭和41年11月26日生まれ・昭和62年6月6日 大阪府大阪市で失踪 当時20歳 飲食店店員)

 5日午後11時30分頃、大阪市北区内のスナックへ行った後、友人の車に同乗。その友人は午前3時50分頃心斎橋の路上に停車、エンジンをかけたまま尾上さんを助手席に残し、近くのビルの飲食店にいる知人と連絡をとりに行った。その友人が約30分後に戻ると車ごと消えていた。尾上さんは免許を取得したばかりで運転歴殆どなし。翌朝、福岡市博多港の沖浜町中央埠頭東側岸壁から乗っていた車が海中に落ちるところを釣り人が目撃。ドアはいずれも閉まっていたが助手席の窓は開いていた。遺体は発見されず。車内には友人のセカンドバックがあったが、なくなっていた。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

<参考>昭和60年前後にはこの他にすでに政府認定者、1000番台になっているケース、非公開ケースでも以下のように若い女性の拉致被害者・特定失踪者がが多い。
●有本恵子さん(昭和・昭和35年1月12日生まれ 昭和58年7月 欧州で拉致 当時23歳 政府認定)
●井尻恵子さん(昭和35年10月23日生まれ 昭和59年3月16日京都府京都市で失踪 当時23歳)
●Aさん(非公開 昭和59年北陸地方で失踪 当時20歳)
●山本美保さん(昭和39年3月3日生まれ 昭和59年6月4日山梨県甲府市で失踪・1000番台)
●今津淳子さん(昭和32年5月28日生まれ・昭和60年4月30日埼玉県大宮市で失踪 当時27歳)
●Bさん(非公開 昭和60年北海道で失踪 当時23歳)
●秋田美輪さん(昭和39年1月25日生まれ 昭和60年12月4日兵庫県神戸市で失踪・1000番台)
●Cさん(非公開 昭和61年 関東地方で失踪 当時21歳)
●根本直美さん(昭和47年1月15日生まれ 昭和62年6月20日茨城県藤代町で失踪 当時15歳)

(19)和田幸二さん(昭和32年5月20日生まれ・昭和63年8月19日 宮崎県南郷町で失踪 当時31歳漁師)

 未明に飲食店から友人を車で送り届けた後失踪。車も見つかっていない。次の日はカツオ漁のために出航する予定だった。林田幸男さん、水居明さんの失踪約1か月後。不確定だが複数の目撃証言がある。

(20)山下貢さん(昭和25年7月5日生まれ・平成元年12月27日 福井県越前町で失踪。当時39歳 作業員)

 当日早朝4時頃、釣り道具を持って「魚を釣ってくる」と実家を出て失踪。越前町午房が平の国道305号線沿いに車が発見される。岩場にえさ箱が残されていたが遺体はもちろん釣り竿、その他の遺留品も未発見。車は鍵がかかっており、車内に長靴・食べかけのおにぎり・免許証などが残される。失踪後数年たった頃、本人の自宅や実家などに無言電話や不審な電話がかかる。

(21)河田君江さん(昭和41年8月15日生まれ・平成2年2月7日 山口県阿武町で失踪 当時23歳 会社員)

 退勤後自宅近くで買い物したのち不明に。2月20日頃、本人の乗っていた車が萩市と島根県益田市の中間の国道沿いの駐車スペースに止まっているのが見つかる。本人は運転時、ヒールのときは裸足で運転するほど汚すのが嫌いだったが、車が見つかったとき、運転席に泥、助手席にシダの葉、少量だが本人の血が付いたカミソリが見つかっている。免許証、通帳などはそのまま。その後預金の引き出しなし。実家へ来るはずが全く逆の方向へ行っている。2月18日に本人の声で知人に架電して「ごめんね」と言っている。車内にあったレシートなどによると、8日午後1時34分 島根県出雲市でパン等を購入。同日午後7時11分 長門市内のコンビニでおむすびを購入。午後7時36分 同市内でカミソリ、チョコレートを購入 午後7時37分 同市内弁当屋でのり弁1個を購入している。

(22)清水桂子さん(昭和43年12月9日生まれ・平成2年12月13日 岡山県井原市で失踪  当時22歳 農協職員)

 勤務終了後、職場を出て失踪。途中に農協の支所があり、自宅への帰途立ち寄ることになっていたがそこに本人から「午後6時には少し遅れる」と電話している。日中、職場に電話があった。誰なのかどういう内容なのかわからないが、話は短かった。本人の車が井原市井原町の書店の駐車場で発見。車内は荒らされていなかった。免許証、財布、ハンカチなどの入った小さなバッグだけを持っていた。キャッシュカードが井原の小田川の土手に四つ折りにして投げ捨ててあったのを近所の人が見つける。翌年3月31日には結婚が決まっていて、休日には楽しく準備していた。帰りが遅くなるときはいつも何の用事で遅くなると電話を入れてくるが、この日はなかった。

(23)大政由美さん(昭和42年4月5日生まれ・平成3年3月28日 韓国慶州市で失踪 当時23歳 大学研究生)

 同年3月に三重大を卒業。考古学専攻。3月27日夜、慶州ユースホステルにチェックインし、翌朝10時に荷物を置いたまま外出し、その後消息不明。現地、慶州警察署で捜索。1991年3月〜94年10月の間に数回無言電話。正確な日付は不明だが、午後から夕方にかけてがほとんど。受話器を取ると人の息、生活音も聞こえず受話器を置くまで一言も話さなかった。北朝鮮にいるとの複数の不確定情報がある。

(24)小野寺将人さん(昭和42年2月15日生まれ・平成3年7月19日 北海道富良野市で失踪  当時24歳 ホテル従業員)

 富良野ラベンダー祭に登別駅からレンタカーで出発し、その後消息を絶つ。1泊2日の予定だったがホテルが取れず車中泊。同21日室蘭警察署に捜索願いを出す。10月26日十勝岳中腹のホテルの駐車場でレンタカー発見。免許証は見つかっていない。銀行預金も引き出されていない。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(25)森本規容子さん(昭和47年11月25日生まれ・平成3年9月22日 兵庫県西宮市で失踪 当時19歳 会社員)

 大阪市梅田の本屋に行くと自宅を出て失踪。家での心当たりなし。失踪前日の21日夜に友人と電話で29日に映画を観る約束をしている。当時の所持金少々。金銭トラブル、人間関係のトラブルなし。失踪後連絡なし。失踪状況は(27)の福山ちあきさんと類似している。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(26)橘邦彦さん(昭和47年9月3日生まれ・平成3年10月15日 静岡県沼津市で失踪 当時19歳 専門学校生)

 10月15日夜、男性から電話があり沼津市の自宅から出ていったまま失踪。免許証の更新もせず部屋もそのまま。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(27)福山ちあきさん(昭和48年9月16日生まれ・平成3年11月3日 大阪府大阪市で失踪 当時18歳 高校生)

 アルバイト先から帰宅途中、大阪市営地下鉄動物園前駅で友人と別れ、それ以後行方不明。就職も決まっていた。生活道具は一切そのまま。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(28)松橋恵美子さん(昭和40年5月15日生まれ・平成4年1月15日 秋田県能代市で失踪 当時26歳 会社員)

 祖母に「鷹ノ巣に行って来る」と告げて車で出かけたまま、その日は戻らなかった。友人の家に行ったのだろうと思っていたら、翌朝出勤していないことがわかる。家族で探したところ、能代市の海岸で車が見つかる。車内には身の回りのものが全て残っていた。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

<参考>1990年代前半の若い女性の失踪としては以上6件の他にすでに1000番台になっている佐々木悦子さん(昭和38年12月6日生まれ・平成3年4月22日 当時の埼玉県浦和市で失踪 当時27歳 銀行パート)のケースがある。

(29)武山京子さん(昭和10年12月20日生まれ・平成4年6月12日 北海道浜益村で失踪 当時56歳 会社員)

 午前8時半頃、タケノコ採りに山に入り失踪。大捜索するが遺留品は全くなし。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(30)田中正道さん(昭和23年6月28日生まれ・平成5年6月7日 千葉県習志野市で失踪 当時44歳 建設関係の職人)

 5月16日、「急性アルコール中毒になり入院した」との連絡が千葉県の病院から鹿児島にすむ家族にあった。入院中病院より連絡があり「身内が近くにいないので、他の人より長く入院させるから」と言われ、6月3日まで入院した。退院前に主治医から鹿児島の妹に電話があり「そろそろ退院する。妹の世話にはなりたくないと言っているので、病院の方で仕事を紹介します」と言われた(後に主治医はそういう話はしていないと言っている)。6月2日、本人より「明日退院するので、免許の更新に茨城に行ってくる」と連絡があった。6月6日、茨城県交通協会で講習を受けたことは免許証にて確認。6月7日千葉市内の友人宅に寄り、「今から仕事に行く」と言って出ていったのが最後。同年6月11日、本人の車が習志野市内の路上に放置してあるとの連絡があった。車は慌てたように斜めに放置、キーがついたまま、ドアの鍵も開いていおり、後輪がパンクしていた。車内には免許証、保険証、預金通帳印鑑、入院時の下着類、仕事着、アドレス帳があった。車が置かれたのは10日夜半か11日早朝と思われる。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(31)宮内和也さん(昭和40年1月27日生まれ・平成9年4月24日 福井県三方町<現在は若狭町>で失踪 当時32歳 町役場職員)

 失踪翌月に三方町世久見のB&G海洋センターでカヌーの研修(本人はインストラクター)が予定されており、ナホトカ号重油流出事故の影響で海岸が汚れていないか確認のため出かける。当日、世久見岸壁で海を見ている宮内さんが目撃されているが、その夜帰宅せず。後に世久見漁港から数百メートル離れた海岸のテトラポッドにカヌーが折れて突き刺さっているのが発見され、さらにその近くで宮内さんの上着が発見された。上着は石が重しのように乗せられていた。カヌーのパドル(櫂)とライフジャケットは艇庫に置いたままだった。

(32)林雅俊さん(昭和50年1月20日生まれ・平成10年5月12日 福井県越前町で失踪 当時23歳 大学院生)

 午前9時頃いつもどおりに大学へ車で向かった。22時30分に大学の指導スタッフと別れる。この日の夜は帰宅しなかった。それまでも卒論などで朝帰りや泊まり込みがあったので帰宅しなくても不思議ではなかった。5月13日福井県越前町の海岸に車が止まっているとの電話が四ケ浦駐在所から自宅にある。車は海岸の釣り場に下りて行くところ(本人は釣りはやらない)で、下りて行く道を塞いだように停まっていた。当日早朝から止めてあった模様。ドアはロックしてあり、中にパソコン、財布、免許証などすべて置いてあった。座席のリクライニングは倒れていた。パソコンには当日14時3分に「このパソコンは義兄にあげる。ゼネコンはいやになった。道を間違えた」と書かれていた。義兄の名前などもあったので内容からして本人であることは確か。その後無言電話が1〜2カ月間続いた。1回女性の声で「雅俊さんいませんか」という電話があった。

 車が置いてあった場所は(20)山下貢さんの車が置いてあった場所から直線距離で10キロほどのところで、置かれていた状況も類似している。また北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

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2008年10月30日

会見中継/お願い/戦略情報研究所講演会

以下は本日30日付調査会NEWS 679号に書いたものです。

■記者会見中継のお知らせ

 すでにお知らせしておりますが、本日30日木曜14:00から調査会の記者会見を行います。今回は1000番台リスト(調査会が拉致の可能性が高いと判断した失踪)の発表を中心に行います。(株)NetLive(ネットライブ)のご協力でインターネットによる生中継を行いますのでぜひご覧下さい。NetLiveのホームページは以下の通りです。

http://www.netlive.ne.jp/

■お願い

荒木和博

 各位には平素ご協力をいただいておりながらまことに申し上げにくいことなのですが、あらためて資金協力のお願いをさせていただきます。

 一昨年以来のカンパの減少は本年も歯止めがかからず、経費節減や役員の負担増、個別に支援のお願いをする等してやりくりして参りましたが、このままでは事務所機能の縮小や来年4月以降の「しおかぜ」放送時間の短縮をせざるを得ない状態になってしまいました。調査会の資金的基盤を作ることを一つの目的として設立した戦略情報研究所もそれに専念できないこともあり、当初の目的は果たせずにいます。金正日の病状や米国のテロ支援国家指定解除など動きが進むなかで活動の低下は何とか回避したいのが偽らざる心境です。

 皆様には普段から多大なご支援をいただいており、申し訳ありませんが、直接のカンパ、しおかぜグッズの購入、戦略情報研究所の会員になっていただく等、ご支援を賜りますようあらためてお願いする次第です。

■参考情報

 戦略情報研究所では以下の通り講演会を開催致します。戦略情報研究所の講演会としては初めて、経済戦略に関するお話しです。参加出来ない方もインターネットでの生中継を行う予定です。ぜひご覧下さい。

1、日程:11月7日(金)18:30〜20:30
 冒頭約1時間の講演を(株)NetLiveのご協力でインターネット中継します。後半はフロアの参加者との質疑応答になります。

2、場所:UIゼンセン会館2階会議室(千代田区九段南4-8-16 tel03-3288-3549)
 ※市ケ谷駅下車3分 日本棋院斜向い (地図は下記をご覧下さい)。
http://www.uizensen.or.jp/about/index.html

3、講師:鈴木壮治氏(一橋総合研究所統括責任者)

4、テーマ:米国発金融破綻と「サムライ資本主義」

5、参加費 2000円(戦略情報研究所会員は無料)。

6、参加申し込み
 事前のお申し込みは不用です。そのまま会場においで下さい。

7、講師略歴

 一橋大学卒業後、三井物産に入社、化学プラントの輸出入およびプロジェクトファイナンス関連業務を担当。米国ペンシルヴァニア大学経営大学院・ウォートンスクールMBA取得。その後、シティバンク、チェースマンハッタン銀行VPとしてコモディティ・デリバティブ、ヘッジファンドなどを担当。1999年から2000年にかけて東京都参与を兼任し、中小企業の金融支援のために、CLO市場創設に貢献。現在特定非営利活動法人・一橋総合研究所の統括責任者として、国際金融、外交・安全保障などの分野での提言を続け、BSイレブンの「闘論・FACA」のモデレイターも務めている。主な著書に『宣戦布告「NO」と言える日本経済』『「アメリカ信仰」を捨てよ』(以上、石原慎太郎都知事と共著/光文社)、『日本国独立宣言』(濤川栄太氏・西村眞悟代議士と共著/ヒューマンアソシエイツ)など。最新の著書は講演のテーマと同じ『サムライ資本主義 「武士道」が「資本と力の論理」を超える』(立川隼人氏との共著/PHP)


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2008年10月29日

記者会見

 一部メディアで報じられていますが、30日木曜14:00から調査会の記者会見を行います。この模様はインターネットで中継しますので(いつものように(株)ネットライブのご協力)、お時間のある方はぜひご覧下さい。今回、一つの転換期になるのではないかと思っています。

 また、11月1日土曜、17:00〜17:55の間日本BS放送(BS11)の番組「FACE(フェイス)」で鈴木壮治・一橋総研COO、増元照明家族会事務局長、矢野義昭・元陸将補との座談会が放送されます。BS放送をご覧になれる方はご覧いただけると幸いです。

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2008年10月27日

若狭の海岸で思ったこと。

 25、26日と福井(若狭地方)の調査及び集会参加をしてきました。小浜から越前海岸にかけては風光明媚な海岸が続きますが、それは同時に工作員が容易に侵入できるということでもあります。原発も密集しており、麻生幾氏の小説「宣戦布告」(映画は石侍露堂監督作品)の舞台になったのもここです。

 今月はこの地域を2度訪れたのですが、海岸に立って「どうやったら守れるだろうか」と考えると背筋に寒気を感じます。日本の法律ではゲリラ侵入の通報があればまず警察が出るわけですが、相手が機関銃を持っていようとRPG-7を持っていようと警察は相手が撃たない限り発砲できません。幸か不幸か自衛隊は全く手遅れになってから大仰な決断の上に出ていくのでしょうが、福井にあるのは鯖江の施設部隊だけです。

 つまり警官が何の手出しもできずに何人も射殺されあるいは爆殺され、多数の住民が殺害されてしまうということです。政府は後で、「いかに迅速かつ適切な対処をしたか」という作文を作り、「二度とこのようなことが繰り返されないように」と盛大な慰霊祭でもやるのでしょう。

 今回、さまざまなことが分かりました。現在整理中です。木曜の記者会見までにまとめたいと思います。

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2008年10月22日

情報

 このところ変な情報が色々流れています。

 具体的には説明しにくいのですが、およそ真に受けることはできず、一方で100%作り話とも言えないようなことで、この12年間多かれ少なかれそのような情報にはずっとおつきあいしてきたのですが、なかなか難しいものです。つかみどころがないというか。詰めていくとふっと消えてしまうようなものばかりで。

 ただ、遠目で見た感触ですが、北朝鮮内部の何かの動きに関わっている可能性は否定できません。こちらから仕掛けられればもっと色々分かるのですが。

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2008年10月20日

下河原線

Scan
 なんということはないのですが、机の中から出てきた写真を1枚。昭和48(1973)年3月30日、国分寺駅の当時4番線ホームにて。今は全く変わってしまっていますが、現在中央線下りホームになっているあたりです。当時国分寺ー北府中ー東京競馬場前という路線(中央線の枝線、通称下河原線)がありました。北府中にある東芝の工場の通勤者輸送と、競馬の時の観客輸送がほとんどという線で、昼間はクモハ40という旧型電車が1両で行ったりきたりしていました。

 写真を撮った翌々日、4月1日に武蔵野線が開通。下河原線は廃止になりました。この線のことは廃線跡歩きなどでよく取り上げられますから、現役時代よりそちらの方でご存じの方が多いかも知れません。この「サヨナラ下河原線クモハ40」のヘッドマークは私の所属していた桐朋中・高の鉄研で作ったもの(当時私は高校1年から2年になるところ)。残念ながら当時の国鉄の許可が下りず停車中に付けさせてもらっただけですが、見返してみると結構良い思い出です。
 ちなみに多少宣伝めいた話を付け加えると桐朋の鉄研は半世紀以上の歴史を持ち、OB会になると時には年齢差50歳くらいになります。私たちが真ん中くらいで、おそらく中学高校の鉄研としては全国でもかなり古い方だと思います。
※写真はクモハ40074(西ムコ)

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2008年10月16日

なぜ土台人や協力者は語らないのか

※本日10月16日付の調査会NEWS 676号に書いたものです。

 9.17の前からずっと疑問が解けなかったことがありました。「金正日が拉致を認め、日本国内で拉致に対する世論が高まっているのに国内の工作員(いわゆる「土台人」など)や協力者は自分のやってきたこと、見たことについて語ろうとしないのか」という疑問です。

 9.17の後、当初は日本国内にいる人間は続々と「自分はこういうことをやった」とか「こういうことをやっているのを見た」と名乗り出るのではないかと思っていました。しかし、それはほぼゼロ(警察に直接行っていればそういうケースがあっても知ることはできませんが)でした。もちろん、自らが犯罪者であると名乗り出るのは勇気もいるでしょうし、北朝鮮の目も光っているとは思います。しかし、それにしてもなぜ全く出てこないのか、少しは漏れても不思議ではないのに、と思ってきました。

 今日(正確には昨日)、その回答がふと頭に浮かびました。それは「今も工作活動が続いているからだ」ということです。正解ではないかも知れません。当たっていればいたで文字通り当たり前のことなのですが、私たちは拉致事件も、北朝鮮の浸透などの工作活動も何となく過去のものであり、今はその後始末をしているような気にはなっていないでしょうか。

 しかし、拉致の救出運動が始まるのは平成9年からですが、例えば富山の黒部川河口で見つかった水中スクーターは平成10年11月から11年4月頃の間に埋められたものでした。奄美沖の工作船事件は平成13年12月のことです。先日韓国で逮捕された元正花は昨年、今年と来日して工作活動に関わっていました。

 考えてみれば平成9年以降の失踪者でも拉致の可能性がある程度考えられる人は何人もいます。結局、勝手に終わったつもりになっているのは私たちだけだったのかも知れません。実は工作活動が変わりなく続けられていたという根拠となるものも最近色々目に付いてきています。

 「生存者全員の帰国」という、政府の目標は、拉致自体が終わったものという印象を強く与えますが、決してそうではありません。私たちはこの問題をもう一度しっかりと見つめ直し、対策を考える必要があるのではないかと思います。

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2008年10月15日

失踪者家族からの手紙の代読

※以下は昨日10月14日付の調査会NEWS 675に書いたものです。一部修正してあります。

 今日「しおかぜ」の収録の中で大沢孝司さんのお兄さんの茂樹さん、山本美保さんのお母さんの文子さんからのお手紙の代読をしました(これは今調査会ニュースにて連載でお送りしている平沼拉致議連会長への手紙ではなく、しおかぜを通じて北朝鮮に送るご家族からのメッセージです)。

 最近は手紙の代読は予備役ブルーリボンの会の一員でもある葛城奈美さんが主にやってくださっているので、自分で読むのは久し振りでした。あらためてやってみて、「しおかぜ」をスタートした当時のことがいろいろ思い出されました。「初心に返る」とはこういうことか、とも感じました。

 「しおかぜ」も無我夢中でスタートして、まもなく3年になります。政府の放送に比べれば10分の1程度のコストで、人員も収録から編集、作成と、村尾理事1人でやっている状態ですが、ともかく3年間続けてこれたのはご支援いただいた皆様のおかげです。あらためて感謝申し上げます。

 お手紙を読んでいるとあらためて解決できない悔しさや自らの非力の情けなさも混じった複雑な思いになります。本当はもっと早くに放送を「緊急放送」に切り替え、直接の救出に使えるようにしたかったのですが。

 いずれにせよ、愚痴をこぼしていてもはじまりません。米国のテロ支援国家指定解除という、プラスにとらえれば日本がフリーハンドを持った「好機」を活かすべくやってまいります。「しおかぜ」へも一層のご支援をお願いします。

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2008年10月12日

米国のテロ支援国家指定解除について

※以下は本日10月12日付調査会NEWS 674号に書いたものです。

 指定解除はヒル国務次官補が次の自分のポストのことだけを考えてやっていることで、政権の残り時間も少なくなった今、もう時間切れになったのだろうと考えていました。昨日の奈良集会でもマスコミの人から聞かれて「まあ、ないでしょう」と答えていたのですが、見込みは見事に外れてしまいました。

 しかし一方で正直なところ私にはこれを望む気持ちもありました。アメリカさん頼みでやってきたことが精算され、「自分でやるしかない」と、日本人の気持ちが変わるなら指定解除のデメリットを補って余りあるメリットがあると思っていたからです。また、もっと大きな意味では日米の同盟関係が、より対等な関係に近づく契機になるとの期待もありました。当初指定解除が予定されていた8月11日が後に歴史上「日米同盟の転機となる日」として記録されるのではないかとも思っていました。

 さて、これからが問題です。米国が頼れない以上、日本政府は独自の対策を取らねばなりません。その一つとしてはテロ国家指定(テロ支援国家、ではなく「テロ国家」)を北朝鮮にするべきです。元CIAアジア部長であるアーサー・ブラウン氏も言っていますが、米国の金融危機で相対的には強くなった日本の経済力を使い、日本が金融制裁をかけることは金正日体制にとって極めて重要なダメージとなるはずです。

 北朝鮮はあまり周りから言われ、国民も不審に思っていることを気にしてか、金正日の写真を出してきました。いつ撮ったものか分からない写真です。サッカーの試合を見たという報道だけでは疑念を払拭できないので、次には写真としたわけですが、この次は写真の右下に日付でも入れるのかどうか、いずれにしても体調の異常は北朝鮮当局の反応によってかえって裏付けられています。

 金正日が健在であることを前提として、単なる話し合いで拉致被害者の一部(政府が「全被害者」と決めてしまえばそれが「全部」ですから)を帰国させておしまいということはもはやできないことが明白になりました。この際政府は方針を「帰国」から「救出」へと明確に転換し、北朝鮮に対する金融制裁を初めとする圧力を自らかけるとともに、積極的な拉致被害者の情報収集、直接的救出準備を進めなければなりません。調査会でも今後早急に個別案件の洗い直しを行い、可能な情報は公開して新たな情報の収集に努めていく予定です。

 米朝関係が進めば中国も介入を強めます。19世紀の帝国主義時代の再来かも知れません。日本が坐視していることは許されません。私たちの安全のためにも。この国の未来のためにも。

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2008年10月 5日

「月刊民社」に寄稿した拙稿

※この一文は民社協会の機関紙「月刊民社」10月号に寄稿したものです。旧民社の、いわば内輪向けに書いたものなのですが、このブログを読んで下さっている外部の方が目にされ、「ブログに載せた方が良い」とアドバイスして下さいました。
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なぜ実力行使をしないのか

拉致事件は北朝鮮の国家目標、南朝鮮(韓国)赤化統一を実現するための行動の一環であり、日本にとっては重大な主権侵害、言葉を変えれば戦争である。「平和憲法がある」とか「日米同盟があるから大丈夫」などという幻想をあざ笑うように北朝鮮は多数の日本人を拉致し、日本国内で様々な非合法活動(警察流に言えば「対日有害行為」)を行ってきた。 

しかし日本政府は、話し合いをするだけで、拉致被害者を取り返そうとはしていない。これは福田政権だけではなく、歴代政権すべてにおいてそうであり、拉致問題を最重要課題として取り組むと自他共に認めていた安倍政権でも同様である。

 日本は海岸線の延長3万4千キロ、これはアメリカ合衆国の倍である。そして国土面積あたりの海岸線の長さは世界一である。排他的経済水域と領海を合わせた面積は世界で6位、水際で国土を守ることは物理的に不可能だ。 北朝鮮だけではない。ロシアに不法占拠されている北方領土、韓国に不法占拠されている竹島、中国が触手を伸ばす尖閣諸島をはじめとして、領土・領海を守り国民をまもるためにどうしなければならないか、それは「日本の領土領海を侵したら必ず報復される」「日本はどんな犠牲をはらっても領土・領海を手放さない」と相手に思わせることが絶対に必要である。

 拉致も同様であって、「拉致をしたら日本はどんな手段を使っても取り返しにくる」と思えば相手はできないのである。いくら拉致をしても日本政府は何もしないと思っているから拉致をし続けてきたのが北朝鮮なのだ。 「平和憲法」「いざとなればアメリカが守ってくれる」「専守防衛」…このような虚構の中で日本は戦後63年を送ってきた。そして憲法改正が党是であったはずの自民党でも改正論議は遅々として進まず、野党第一党の党首は「国連中心」という、さらに夢物語のようなことを言っている。

 拉致問題に話を戻す。拉致被害者は主権侵害によって我が領土から奪われた国民、居住者(在日朝鮮人や他国の国民も日本から拉致されていると推定されている)や騙されて北朝鮮に渡り帰れなくなった人々である。日本が国家の意思を示して実力で取り返すのは当然のことである。なぜ民社協会の民主党所属議員は国会の中で「拉致被害者奪還のために政府は自衛隊を使うべきである」と主張できないのか。それこそが民主党を責任政党たらしめる道ではないのだろうか。

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2008年10月 1日

Mac

 そもそも調査会は時代に逆らっているのかどうか、煙草吸いの迫害されているこの時代に、ほとんどのスタッフが仕事をしながら煙草を吸っている。私は吸わないが、人の吸うのは別に構わないし、これだけ嫌煙権が騒がれると逆に「吸いたいんだったら吸わしてやればいいじゃないか」と思うくらいである(そのかわり喫煙者の配慮で空気清浄機が3台置いてあるが)。ビルの外まで出ないと煙草が吸えない人からすれば「地上の楽園」だろう。

 もう一つひねくれた話。調査会の事務所の中ではパソコンはMacの方が優勢である。私もPowerBook150以来のMac使いである(このパソコンを今知っている人は相当の通だと思う)。したがって時にはPagesなどという、おそらく大部分の人はそういうソフトがあることも知らないで死んでいくだろうワープロソフトで作った文書も出てくる。Windowsが優勢になるとなおのことMacを使いたくなるというのも性格のなせる業か。私自身大学は全部Windowsになってしまったので使わないわけにもいかず、併用しているが、やはり使い勝手はMacの方がはるかに良いと思う。

 デファクトスタンダード、つまり市場のシェアを独占したものが基準となるというのがパソコンの世界であり、したがって結局マイクロソフトのWordやExcelが使えなければいけなくなるという現実は何とも悔しい。特にWordに至っては勝手に文書を校正しようとするのが気に入らない。ビル・ゲイツの顔を思い出しながら「お前なんかに日本語を直される筋合いはない」とつぶやくのである。もし日本が大東亜戦争に勝っていれば今頃アメリカ人に「一太郎」か「EGWord」(Macのワープロソフト)を使わせていたかもしれないのに。

 それはともかく、このデファクトスタンダードというのは曲者で、経済を初め、ある意味世界全体がこれに振り回されている。グローバリズムとか規制緩和というのはそれにあたるのだろうが、本当に吟味した上でのことではない。「長いものに巻かれろ」という意識が結局個性を摘み取っているのではないか。あえて少数派になることが今の時代こそ必要なように思う。もっとも、民社党の支持者になったときから私自身がそういう運命なのかもしれないが。

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