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2009年1月29日

大森勝久さんの原稿

 私が少々お手伝いしている大森勝久さん(北海道庁爆破事件の犯人として死刑判決を受け再審請求中)の原稿が出たばかりの撃論ムック「沖縄とアイヌの真実」に「獄中からのアイヌ論」として掲載されています。

 また、ホームページにも新たに「生い立ち」と「私の左翼時代ー洗脳されて革命運動に」を掲載しています。大分前に書いてくれていたものですが、私の怠慢で掲載が大分遅くなってしまいました。ぜひご一読ください。

 大森さんと私はかならずしもすべての意見が一致するわけではないのですが、少なくとも一つの意見として、多くの方に知って頂きたいと思います。現在法的制約で外部交通権が制限されており、ご家族j以外には私を含めて3人しか直接の手紙のやりとり、面会ができないため十分な意見の発信ができませんが、これがもっと開放されて色々なところで大森さんの意見が発信され、また議論の対象になればと思っています。

 もちろん、この極めて根拠不明確な裁判自体一刻も早くやり直してもらいたいことは言うまでもありませんが。

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2009年1月26日

宣伝です

 私の本職である拓殖大学海外事情研究所教授としてのPRです。

 拓殖大学の大学院国際協力学研究科には国際開発専攻と安全保障専攻があり、私は安全保障専攻の方の担当をしています。私はゼミを持っているのは大学院だけで学部にはゼミはありません。安全保障専攻の大学院のある大学は防大を除けば拓大だけだと思いますので関心のある方はぜひどうぞ。ちなみに授業は午後遅くから夜間になっておりキャンパスは文京キャンパス(丸ノ内線茗荷谷)ですから社会人の方でも大丈夫です。詳しくは下記をご覧下さい。

 http://www.takushoku-u.ac.jp/graduate/ics/index.html

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2009年1月25日

調査会の今後の方針

 1月23日、特定失踪者問題調査会では理事会を開催し、今後の活動について、下記の各事項の実現ないし実施に向けて取り組んでいくことになりました。あらためてご協力をお願いする次第です。

・現在集まっている署名を拉致議連を通じて政府に提出し、積極的な対応を求める。

・高敬美・剛姉弟の拉致認定を求める。

・現状の政府認定基準の見直しを求める。

・拉致対策本部に情報収集機能に関わる活動の比重を大幅に高めること及び拉致以外の北朝鮮人権問題も管轄することを求める。

・拉致議連の中に北朝鮮人権問題を担当する部会を設けるよう求める

・海上保安庁に海上における失踪事案の調査に関し直接の要請を行う

・防衛省に対し北朝鮮の地理情報集積、邦人保護次元の拉致被害者への対応を求める。

・自治体レベルでの拉致問題に関する啓発活動の推進を求める。

・知事の会に続いて市町村長の会の結成を求める。

・本年は北朝鮮への帰国運動開始50周年であり、「アジア人権人道学会」結成ともあわせ他の北朝鮮人権問題関連団体との連携を強化する。

・脱北者からの北朝鮮情報の聞き取りを独自に行うとともに、政府に対しても積極的に行うよう求める。

・すでに古川了子さんの拉致認定を求める行政訴訟を行ったが、今後あらためて政府の不作為を問う訴訟を行うことも視野にいれて法的措置の検討を行う。

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2009年1月19日

チャーリー・ウィルソンの戦争

 日曜に阿南市での集会に参加するため、土曜夜遅くに徳島に入りました。ホテルの部屋のビデオで見たのがこのタイトルのアメリカ映画。別にポルノではありません。昨年5月に日本でも劇場公開されたようですが、全く気づきませんでした。ちなみに劇場公開のときのタイトルは「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」だったようです。

 この映画は1980年代、女性に目のない下院議員のチャーリー・ウィルソン(トム・ハンクス)がスポンサーでもあり愛人でもあるジョアン(ジュリア・ロバーツ)の説得でソ連の侵攻を受けていたアフガニスタンの問題に関わるようになり、はぐれ者のCIA要員、ガスト(フィリップ・シーモア・ホフマン)の協力を得てゲリラに秘密裏に武器を供与してソ連軍を撤退に追い込み、ひいては冷戦集結に重要な役割を果たすというものです。内容はほぼ事実に基づいているとのこと。

 後でネットの映画評を見るとあまり評価は良くなかったようですが、偶然であった映画とは言え、自分には印象の強いものでした。かいつまんで言えば、「ぐだぐだ言っているより実行してしまうこと」です。拉致問題にせよ北朝鮮の人権問題にせよ、「政府がけしからん」「憲法がだめだ」というだけで後は一杯やってオダをあげておしまいではなく、ともかくできることをやっていけば、少数でも何かができるのではないかということでした。

 ホテルのビデオもポルノばかりでなく、Vシネマなども含めて結構面白い作品があるものですね。

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2009年1月13日

北朝鮮難民救援基金の東京弁護士会人権賞受賞パーティーに参加して

※本日1月13日付の調査会NEWS 739号に書いたものです。

 すでに報じられていますが、北朝鮮難民救援基金(加藤博理事長)が東京弁護士会の2008年人権賞を受賞しました。昨日13日、都内で受賞を祝うパーティーが行われ私も参加してきました。

 参加者は北朝鮮人権問題だけをとっても守る会、家族会、各地の救う会、脱北帰国者や韓国から人権運動家の金尚憲さんさら多彩なメンバーがかけつけました。また、中国の民主化運動を行っている方々やミャンマーで政府から弾圧されている少数民族の方々も参加されました。

 脱北者支援民団センターの代表である呂健二・民団副団長はスピーチの中で奥様のお姉さんが帰国しており数年前に北朝鮮の元山で亡くなられたことを話されましたが、脱北帰国者の参加者の中で元山出身の方がおり、偶然にもお姉さんを良く知っておられたとのことでした。この会の思わぬ収穫だったと言えるでしょう。実は私も終戦直前に北朝鮮の咸興で家族に最後の葉書を送って行方不明になった伯父がいるのですが、戦後もし少しの間でも北朝鮮で生きていたとしたら脱北者で知っている人はいないだろうかと思ってしまいました(軍人として行っていたこともあり、その可能性は限りなくゼロに近いのですが)。

 ところで私自身、スピーチの中でお話ししたのですが、例えば呂代表とは地方参政権問題で立場が違いますし、参加している人たちにはこの問題を離れれば全く異なる立場の人もいます。しかし、そういう人たちが集まって、北朝鮮の民主化、人権状況の改善のために努力をするというのは素晴らしいことであり、それこそが自由の強さ、民主主義の強さであると思いました。

 今回の受賞は法律家の会の弁護士の皆さんの努力の賜でもあります。様々な立場の人たちが現実を見て、「これはどうにかしなければならない」という思いから取り組む、もちろんそのやり方も様々ですし意見の対立もあるでしょうが、常に空想の世界に逃避しない、現実の問題に取り組む努力をしていれば道は開けるのではないか。パーティーに参加してそんなことを思ったのでした。

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2009年1月 3日

何人拉致されたのか

※1月3日付の調査会NEWS735号に書いたものです。

 この質問も「よくある質問」、いわゆる「FAQ」に入るでしょう。

 私はこの質問を受けたときに「少なくとも100人以上、おそらくそれより遙かに多い数」と答えています。

 具体的にどれだけ拉致されたかについては私たちのみならず、警察などの政府機関がどんなに一所懸命やっても正確な数は分からないはずです。それにはおよそ二つの理由があります。

1、身寄りのない人を狙った拉致

 政府認定者で言えば久米裕さん、田中実さん、原敕晁さんは身寄りがないか、それに近い状態の人を狙った拉致です。この場合は家族が立ち上がることはないので、単なる失踪として処理されてしまうことが大部分です。調査会の特定失踪者リストでも、公開の人はほぼ全てがご家族からの届け出によるもので、この点は警察の持っているリストも同様だと思います。久米さんらは犯人が捕まったりして明らかになったケースであり、成功していればほとんど分からないはずです。

2、グレーゾーン

 たとえば、「よど号の妻」にしても、大部分は北朝鮮シンパであり、自らの意志で北朝鮮に行ったわけですが、そのときはよど号犯と結婚して定住するとは思っていませんでした。帰れないと分かったときに彼女たちが「帰して欲しい」と言えばこれも一種の拉致にあたるでしょう。結果的には北朝鮮の意に沿った活動をし続けているために拉致ではなくなっているということです。

 もっとも、拉致されて工作活動に従事させられた人は少なくないはずです。拉致被害者が例えば日本に戻って工作活動に従事する場合、北朝鮮当局は自国の工作員に対して行うと同様、家族を人質として北朝鮮に残させるはずです。もちろん、裏切れば本人の命も狙われます。したがってこれは特別の場合を除き一種の「緊急避難」として免責されるべきでしょう。

 話を戻すと自分の意志で、特に北朝鮮の体制に一定の共感をもって入った人の場合はどこまでが拉致か、はっきりしない場合がかなりあると思います。また、前から言われていることですが、多重債務者を北朝鮮に連れて行ったり(韓国人でも何らかの理由で国内にいられなくなった人を北朝鮮に連れて行ったケースはあるそうです)したケースはどうなるのかとか、かなり難しい問題です。

 以上のような理由から、はっきりした数はすべて蓋を開くまで分からず、蓋を開いてもどこまでを拉致とするのかはかなり難しい問題と言えます。これに加えて在日朝鮮人の拉致被害者も帰国運動で帰った人と別に相当数いると思われ、昭和48年の金大中事件と同様に考えれば、外国籍であっても日本国内からの拉致ですから主権侵害という意味では同様です。

 全体の数が分からない以上、「完全解決」(それも、本来は目標とすべき原状回復を放棄してのことですが)は北朝鮮の体制を変える以外に実現しないことがこれらから明らかになると思います。

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2009年1月 2日

拉致はいつ行われたのか

※以下は本日(1月2日)付の調査会NEWS734号に書いたものです

 「北朝鮮はいつ頃拉致を行ったのでしょうか」という質問は「なぜ拉致をしたのか」と同じくらいよく聞かれます(いわゆるFAQというものでしょうか)。

 この本当の答えは北朝鮮の体制が変わり、私たちが自由に北朝鮮の中に入り、北朝鮮にいる拉致被害者すべてが自分が拉致されたことを語れるようになるまでは分かりません。しかし、いくつかの事例からある程度の推測をすることは可能です。

 首相官邸のホームページには「1970年頃から80年頃にかけて、北朝鮮による日本人拉致が多発しました」と書かれています。しばらく前まで政府の文書には「1970年代後半から1980年代前半に起きた」といった趣旨の書き方がされていたように記憶しています。しばらく前ですが、1980年代半ばにおきた拉致未遂と思われる事件の被害者が政府機関の人に相談したところ「ああ、それは時期が違うから」と一蹴されたこともあったそうです。残念ながら政府にはまだこの認識が完全に抜けているとは言えません(現在の表現は1970年頃から80年頃以外に行われていないとはされていないので、しっかり逃げは打ってありますが)。

 しかし、政府は認定していないものの、昭和38(1963)年の、いわゆる寺越事件は、被害者の一人寺越武志さんが北朝鮮にいることからも拉致は確実です。これはいわゆる「遭遇拉致」と言われるもので、北朝鮮の工作船と漁船が出会ってしまったことによって行われたものです。発覚を恐れたなら殺害してしまえばよいのであって(実際最年長の寺越昭二さんは殺害されたという話もあります)、能登から清津まで連れて帰るということは、必要があれば「拉致してくる」という選択股が作戦計画の中にあったからに他なりません。遭遇によって行われた事件ですからこのときだけということはあり得ず、おそらく同様のことはこれ以前も、これ以後もあったはずです。

 調査会の1000番台リスト(拉致の可能性の高い失踪者)では最も古い事件が昭和28(1953)年の徳永陽一郎さん、最も新しい事件が平成10(1998)年の林雅俊さんです。0番台リスト(拉致の可能性が完全には排除できない失踪)で言えば昭和23(1948)年の平本和丸さんが最も古く、平成16(2004)年の小山修司さんが最も新しい失踪です。非公開の方の中にはそれより新しい失踪も入っています。

 もちろん、今の時点で平本さんや小山さんの失踪が拉致だと言えるわけではありません。しかし、ニュースの730号に書いたように拉致が北朝鮮にとって「通常」であると考えればそのやり方がどんなものであれ(騙して入国させて返さないものも含め)日本からの解放(昭和20年)以後、スターリンに指導者として指名された金日成の権力が確立してから遠くない時期に始まり、そして今でも続いていると考えた方が自然だと思います。

 拉致をしてきた北朝鮮当局はもちろんですが、されてきた日本の政府が長年それを隠蔽してきたこと、そのような主権侵害に対する措置を怠ってきたことを考えると今後も拉致が行われる可能性は十分に存在します。私たちは自らの安全に対してもう一度しっかりと考え直す必要があるのではないでしょうか。 

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2009年1月 1日

あけましておめでとうございます

※以下は元旦付の調査会News733号に書いたものです。

 色々ご心配をおかけしましたが、北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」はお陰様で当分の間は現状の放送を維持できる状況になりました。現在は人権週間の特別番組及び新年の特別番組を放送していますが、編集等の作業を一人でやっている村尾理事が年末体調を崩しながら何とか放送にこぎ着けたものです。日本国内でもお聞きになれる方はぜひ聞いてみて下さい。また、ご支援いただいている皆様、電波を送って下さっているKDDI八俣送信所の皆様を初めとする関係者の皆様に心より御礼申し上げる次第です。

 また、「しおかぜプロジェクト」は短波放送だけではなく、ビラを北朝鮮に送る「バルーンプロジェクト」と北朝鮮からの情報収集なども重要な活動です。バルーンプロジェクトはまた新たなビラを作成し、韓国のNGO、基督北韓人連合のご協力をいただいて北朝鮮に送り続けます。情報収集については現在こうしているということの報告はできませんが、明らかにできることは定例記者会見などを通じて逐次お知らせして参ります。最近、私たち自身にとっては当然と感じていることでも実際には多くの方がご存じないことが意外とあることを実感しており、繰り返し情報の提供を行っていくことにも努力して参る所存です。

 ところで、年末何人かのご家族からお手紙等をいただきましたが、そこから感じたことはこれまで以上に強い切実さでした。あらためて「時間がない」ということを実感しています。今の構造、今の常識のままではいけないということを痛感している次第です。北朝鮮の地では今も極寒の中で凍えている人々がいます。そしてその地に私たちの同胞がいます。思想信条を超えてこの状況を変えていかなければならないと確信しています。

 私自身はかつて「平成18年末までに拉致問題を解決する。それができなければ責任を取る」と言ってきました。すでにそれから2年が過ぎてしまいました。まだ責任を取らせていただく機会には恵まれませんが、あらためてこの言葉を思い返し、新年の活動に臨む所存です。今後ともご支援をよろしくお願い申し上げます。

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