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2011年9月30日

姜海龍より金正日ではないのか

【調査会NEWS1083】(23.9.30)

■姜海龍より金正日ではないのか
             荒木和博
          
 警視庁が姜海龍・元北朝鮮対外情報調査部副部長を国外移送目的略取などの疑いで逮捕状をとり国際指名手配する方針を固めたと報道されています。まあ、やらないよりは良いのでしょうが、なぜ今頃になってというのが正直なところです。

 そもそも、これまでに国際指名手配した辛光洙らも同様ですが、捜査員が北朝鮮に行って被疑者を逮捕してくるというのならともかく、実質的には何もしないのですからアピール以外の意味は無いと言っても良いでしょう。どうせパフォーマンスでやるなら大元である金正日の逮捕状を取るべきではないでしょうか。直接動いている担当者の努力は多としつつも、根本的な方針の貧困さには目を覆うばかりというしかありません。

 ところで、この情報は「…ということが分かった」と報道されています。つまり警察が事前に流したということなのでしょう。某県警の警備部長は真面目な顔で「警察が事前に捜査情報を流すことはない」と言っていましたが…。

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2011年9月27日

1000 キロ現地調査第2回の概要について

【調査会NEWS1081】(23.9.26)

■1000 キロ現地調査第2回の概要について

 今回の現地調査の概要は下記の通りです。ご協力いただいた皆様に再度御礼申し上げます。

●目的
(1)現地調査により個々の事件及び北朝鮮による拉致・工作活動への認識を深める
(2)広報啓発活動を通し今後の工作活動を抑止する。
(3)現地で特定失踪者家族から北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」のメッセージを収録する(今回参加した全ての家族のメッセージを収録)。

●参加役員
 荒木和博(代表)・岡田和典(副代表)・村尾建兒(専務理事)・三宅博(常務理事)・曽田英雄(常務理事)

●協力
 救う会秋田(松村譲裕代表他秋田地区・男鹿地区・能代地区の皆さん)
 救う会青森(成田義人代表他役員の皆さん)

●特定失踪者家族(日程に記載)

●日程
9月24日(土)

1、木村かほるさん関連現場調査(姉の天内みどりさん同行)

<木村かほるさんは昭和35(1960)年2月27日、在校していた秋田高等看護学院の寮から外出したまま失踪。当時21歳。卒業式を10日後に控えていた。金賢姫をはじめ北朝鮮での目撃証言や所在情報がある>

※寮のあった場所及び朝鮮総聯事務所前などを訪れる。想定されるのは後述今井裕さんと同様何らかの形で誘引されて短時間のつもりで出かけたという状況他の失踪と共通する点等が明らかに。また、今回の調査とは直接関係ないが今後金賢姫と天内さんの面会等の実現に向けて努力していく。

2、男鹿脇本事件現場調査

<男鹿脇本事件は昭和56(1981)年8月5日午後10時、秋田県男鹿市の脇本海岸でゴムボートに乗っている不審人物3人を警戒中の秋田県警察の警察官が発見した。そのうち1人を逮捕したが、残りの2人はゴムボートで逃走した。逮捕された男は在日韓国人で同年1月頃に北朝鮮の工作員となり、その後約6ヶ月間、工作員としての思想教育を受けた後、工作員としての専門教育を受けるため7月5日に北朝鮮に密出国、1か月のスパイ教育の後、日本に密入国しようとして逮捕された>

※脇本海岸にて現地の人から状況を聞く。男鹿半島でこの海岸が波が静かで最も侵入しやすいところであることなどが分かった。

3、松橋恵美子さん失踪関連現場調査

<松橋恵美子さんは平成4(1992)年1月15日失踪。当時26歳。縫製工場勤務。祖母に「鷹ノ巣に行って来る」と告げて車で出かけたまま、その日は戻らなかった。19日に能代市の海岸で車が見つかる。車内には身の回りのものが全て残っていた。車内にあった給油伝票は15日10:03に合川のガソリンスタンドで、同日14:47に能代市内のガソリンスタンドでそれぞれ10リッター余りを給油するという不自然なものだった>

※合川駅で失踪状況の確認。失踪当日の朝給油したガソリンスタンド跡及び車が放置されていた能代浜を訪問。合川のガソリンスタンドでは親戚に声をかけられていたことが分かる。同日もう一度能代のガソリンスタンドで給油しているが、これは別の人間がした可能性が高いことが明らかに。

4、薩摩勝博さん失踪関連現場調査(妹の品川貴美子さん同行)

<薩摩勝博さんは昭和48(1973)年1月、同じ村落出身の女性と結婚の意思を固め実家を2人で訪れるが父や親戚に反対される。その夜は実家に泊まり、翌朝「彼女を送ってくる」と能代市内の女性の住むアパートに行ったまま戻らず。車も発見されていない。アパートは後に焼失している>

※女性の住んでいたアパートの跡地を訪れ当時の状況を確認。女性の消息も不明であり、男女の失踪は1970年代に集中しているのでこれに該当する可能性が存在する。

5、第1次能代事件関連現場調査

<第1次能代事件は昭和38(1963)年4月1日午前5時30分ごろ、能代市浅内浜に住んでいる人がマラソン練習のため海岸を走っていたところ、海岸波打際に浮かんでいる救命胴衣を着た死体2体と灰色のゴムボート等を発見した。死体は1人は年齢が25〜26才位、もう1人が35〜36才位で、死亡推定日時は3月31日深夜と判断された。第2次能代事件は昭和38年5月10日午前8時ころ、米代川河口において漁をしていた人が死体を発見。死後30〜40日経過しており第1次能代事件の死体の仲間と判断されたもの>

※周囲には上陸の際目標となるものがなく、陸上から発行信号等で合図して上陸した可能性が高い。

6、八峰町・東八森駅近くの海岸調査

 <元朝鮮総聯幹部韓光煕の設定した工作員侵入ポイントのうちの一つ>

※ 同日は弘前泊。家族・関係者による懇談会(特定失踪者家族は木村かほるさん、今井裕さん、木本佳紀さん3人のご家族が参加)

9月25日(日)

1、今井裕さん失踪関連現場調査(兄の今井英輝さん同行)

<今井裕さんは昭和44(1969)年3月2日失踪。当時18歳。弘前工業高校3年生で、4日に行われる卒業式で答辞を読むことになっていた。「制服のボタンを買いに行く」と自宅を出たまま行方不明に。東京の営団地下鉄(現東京メトロ)に就職が決まっていた。>

※自宅及び最後に目撃された自宅近くの家の前、ボタンを売っていた店の跡を訪れ当時の状況を確認。本人が何者かに誘引されていた状況がより明らかになった。今後誘引する方の立場からどのように本人にアプローチしたのかを確認する必要を痛感した。

2、木本佳紀さん失踪関連現場調査(父の木本巌さん、母の和子さん同行)

<木本佳紀さんは昭和60(1985)年10月1日下宿先から失踪。当時22歳。弘前大学の学生で北海道出身。下宿先の机の引き出しには免許証、預金通帳、キャッシュカード、旅行鞄、衣類も残っていた。10月1日付の新聞が部屋の中にあった>

※入学後に入った弘前大北溟寮と失踪時に居住していたアパートの跡地を訪れ当時の状況を確認。木本さんは実家が北海道で一人暮らしだったため失踪時の状況は十分に分かっていないが、今回の調査でご両親から聞いたことも合わせ、当時の学生運動や他の失踪との共通性などを今後検討していく。

3、平山政子さん失踪関連現場調査(兄の平山勲さん同行)

<平山政子さんは昭和47(1972)年3月24日に失踪。当時25歳。飲食店従業員。当日、絵を描いていた姉が入賞し、お祝いのために待ち合わせていたが現れず。アパートを訪ねると、特に身辺整理した様子もなく、普段の生活状況のままだった。1週間ほど後に乗っていた車が市内で発見される>

※勤務していた店の跡と自動車が置かれていた場所を訪れ、当時の状況を確認する。事件が田口八重子さんや渡辺秀子さんのケースに類似していること、車が別人が放置していった可能性が高いことなどが明らかに。

 調査日程終了後、記者会見を兼ねた報告会を県民福祉プラザで開催。調査会役員、特定失踪者家族(天内みどりさん、今井裕さん、木本巌さん、木本和子さん、平山勲さん)、救う会青森成田代表、白川副代表が参加。終了後解散。

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2011年9月26日

現地調査へのご協力御礼

【調査会NEWS1080】(23.9.26)

■現地調査へのご協力御礼
                          荒木和博

 24、25日と秋田・青森で実施した1000キロ現地調査第2回は昨日無事終了しました。 ご協力いただいた松村譲裕代表はじめ救う会秋田、同秋田地区・男鹿地区・能代地区の皆さん、そして成田義人代表はじめ救う会青森の皆さん、ありがとうございました。

 報告はあらためて行いますが、今回特定失踪者木村かほるさん・松橋恵美子さん・薩摩勝博さん・今井裕さん・木本佳紀さん・平山政子さんのご家族に同行いただきました。心より御礼申し上げます。遠く北海道、三重県からご参加の方もあり、ご家族同士の交流という意味でも大きな成果がありました。

 また地元及び東京の報道関係者の皆さんも多数ご参加いただき、厳しいスケジュールと頻繁な移動の中で熱心な取材をいただきありがとうございました。

 今回で累計キロ数は990キロとなり、次回で目標の1000キロを突破するのは確実になりました。これまで2回の調査で集中的現地調査の必要性を痛感しましたので、目標を一桁上げて10000キロとします。したがって新たな目標まで9010キロとなります。

 調べていくほどに、個々の失踪の輪郭が明らかになると同時に拉致問題について、これまで何十年もの間、政府が隠しているのではないかと思われることが明らかになってきています。今後さらに強力に進めていきますので関係各位のご協力をお願いします。

 なお、「政府が隠す」と言えば本日発売の「WiLL」11月号に拙稿が掲載されています。同誌9月号に掲載された「警察が隠蔽したもう一つの拉致事件」の続きにあたるものです。よろしかったらご一読下さい。

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現地調査へのご協力御礼

【調査会NEWS1080】(23.9.26)

■現地調査へのご協力御礼
                          荒木和博

 24、25日と秋田・青森で実施した1000キロ現地調査第2回は昨日無事終了しました。 ご協力いただいた松村譲裕代表はじめ救う会秋田、同秋田地区・男鹿地区・能代地区の皆さん、そして成田義人代表はじめ救う会青森の皆さん、ありがとうございました。

 報告はあらためて行いますが、今回特定失踪者木村かほるさん・松橋恵美子さん・薩摩勝博さん・今井裕さん・木本佳紀さん・平山政子さんのご家族に同行いただきました。心より御礼申し上げます。遠く北海道、三重県からご参加の方もあり、ご家族同士の交流という意味でも大きな成果がありました。

 また地元及び東京の報道関係者の皆さんも多数ご参加いただき、厳しいスケジュールと頻繁な移動の中で熱心な取材をいただきありがとうございました。

 今回で累計キロ数は990キロとなり、次回で目標の1000キロを突破するのは確実になりました。これまで2回の調査で集中的現地調査の必要性を痛感しましたので、目標を一桁上げて10000キロとします。したがって新たな目標まで9010キロとなります。

 調べていくほどに、個々の失踪の輪郭が明らかになると同時に拉致問題について、これまで何十年もの間、政府が隠しているのではないかと思われることが明らかになってきています。今後さらに強力に進めていきますので関係各位のご協力をお願いします。

 なお、「政府が隠す」と言えば本日発売の「WiLL」11月号に拙稿が掲載されています。同誌9月号に掲載された「警察が隠蔽したもう一つの拉致事件」の続きにあたるものです。よろしかったらご一読下さい。

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2011年9月23日

大躍進

 中国の「大躍進」政策と言えば、1950年代終わりから60年代初めにかけて数千万の死者を出した、文字通りの「人災」として知られている。かつて丁抒著の『人禍 1958~1962 餓死者二〇〇〇万人の狂気』(学陽書房)という本を読んで衝撃を受けた記憶があったが、先日草思社から出たフランク・ディケーター著『毛沢東の大飢饉』(中川治子訳)という本はそれに輪をかけて衝撃的だった。
 この本では中国政府や地方機関の文書をもとにして餓死・病死など大躍進が理由で死に至った人の数を少なくとも4500万人としている。北朝鮮の人口の倍、韓国の人口に匹敵する人が死んでいったことになる。そこに出てくる中国全土を覆った悲惨な状況は読んでいく程に気が滅入る内容である。いわゆる「南京大虐殺」など、仮に中国の言っていることがすべて事実だったとしても大躍進の中国の状況からすれば、その「一点景」程度にしかならないと感じた。逆に言えば日本の責任を強調するのは中国共産党が自らの汚点を何とかして消してしまいたいということなのだろう。

 しかも恐ろしいのは大躍進(と文化大革命)が独裁者毛沢東の虚栄心や思い込み、権力への執着などによって引き起こされたということだ。共産主義というのはありもしないユートピアが出来ることを前提にしたもので、そのためにはいかなる手段も合理化されるということになるのだが、実際には人間の持っている恨みとか妬みという感情や破壊への衝動を合理化するだけで、全てを破滅に導く思想(あるいは宗教)である。

 毛沢東は大躍進の失敗によって一度は引き下がるが、再度文化大革命によって権力を奪い取る。大躍進と文化大革命は中国の昔からの農村社会、共同体を根こそぎ破壊し、計り知れない被害を与えた。本来中国を支えるべき知識人や官僚などの多くが失われ、その後の後遺症は今も続いている。大躍進政策に反対し、後に粛清される彭徳懐ら、少なくとも毛沢東よりははるかにまともだったと思える共産党の幹部もそこには入っている。

 この残虐な破壊は毛沢東という男と、その下にいた数多くの「ミニ毛沢東」の仕業である。国民党政権も腐敗していたが、共産党に対する厳しい弾圧というのは、後にその共産党が政権をとって大躍進や文革を引き起こしたことを考えれば大枠で正しかったのではないかと思う。そして、様々な理由はあるにせよわが国が国民党との戦いを避けるか、始めたとしても早期に収拾できていれば国民党が共産党に負けることもなく、大躍進の悲劇は起きていなかったのではないかと悔やまれるのである。ついでに言えば、それが実現していれば敗残兵となった国民党が台湾で引き起こした「2・28事件」もなかったろう。

 この大躍進と文化大革命を何十年も続けているような国を研究対象としている者としても、示唆を受けることは多かった。

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2011年9月19日

なぜ北朝鮮は崩壊しなかったのか

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 新著です。自分自身20年前から「北朝鮮は崩壊する」と言ってきました。その認識に変わりはありませんが、とにもかくにもあの体制が延命していることは事実。その理由について考えてみました。よろしかったらご一読下さい。(光人社NF文庫・695円+税)

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2011年9月14日

あの船は本当に自力で北朝鮮からやってきたのか?

【調査会NEWS1077】(23.9.14)

 9日から昨日13日まで予備自衛官の訓練に出頭しており、総理と飯塚代表ら家族会の方々が面会していたことはニュースで知りました(ちなみに面会の日私は射撃の訓練をやっていました)。拉致問題担当大臣はもちろん官房長官に外相まで付けるという「豪華メニュー」で、日程の調整は大変だったでしょうが、さてそれだけ揃って何が変わるのかと言えば何もありません。

 目的はおそらく家族会の人たちの批判的な発言を封じるということでしょう。ある意味拉致被害者は日本政府にとっても人質です。小泉第二次訪朝のときの「家族会パッシング」などのことも考えると、個別具体的な要望はできても家族会の人たちが正面を切って政府の批判をするのは難しいと思います。おそらく私がその立場でもできないでしょう。逆に言えばこのやり方は拉致問題を解決するためではなく、拉致問題を封じるためとも言えるわけで、人質のいない私たちはその分厳しい姿勢を持つことが必要だと思います。

 ところで、今問題となっている北朝鮮からの船ですが、形を見たところ4年前に青森の深浦港に入港したものと同型のようです。あのとき、私は「こんな小舟が直線距離で800キロも離れた北朝鮮清津から自力で深浦まで来られるはずはない」と言っていたのですが、するとある政府筋の人が「いや、この舟は間違いなく北朝鮮から日本に自力でやってきた」とわざわざ言ってきました。なぜなのか、今でも理由は分かりません。

 実際には現地の海保で後に秋田港を使って舟を浮かべレーダー検証実験をしていますが、港を出るのも難しいというような代物です(写真が救う会秋田のホームページに掲載されています http://www.sukuukai-akita.net/rireki.html)。

 そもそも軍の管理している舟で北朝鮮の港を出るのも難しいでしょうし、子供の乗った小船が警戒をくぐり、日本海の荒波を越えて5日で能登半島沖までやってこれるのでしょうか。私自身はその疑問のところでストップしており、ではどういうことが考えられるかというとまだ確信がないのですが、何らかの理由で母船に搭載されて日本近海で離脱したとも考えられます。

 深浦のときは自民党政権でした。あのときは徹底して情報を隠していました。民主党野田政権は総理・官房長官・外相・拉致担当相をそろえる意気込みでぜひ事実を明らかにしてもらいたいものだと思います。

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2011年9月 7日

初当選

【調査会NEWS1076】(23.9.7)

■初当選

               荒木和博

 4日の日曜日、都内で開催された家族会・救う会・拉致議連共催の「緊急国民集会」のときの話です。私も報告をさせていただいたのですが、控え室でこんなことがあったそうです。

 この集会では山岡新大臣が参加し、挨拶をしたのですが、開催前に控え室で家族会の皆さんと初めての対面をしました。そのとき、あるご家族が「○○年に拉致をされました」と話したところ、大臣は「私はその年に初当選したんです」と言ったとのこと。

 実は私は顔も見たくなかったので同じ控え室の中でも一番遠いところにいたため分からなかったのですが、周りにいた人が後で教えてくれました。話しを聞いて、怒りを通り越して呆れるばかり、それにしてもよくこんな人を担当大臣にしたものです。

 昨日は松原仁・国土交通副大臣が拉致問題担当副大臣に任命されましたが、こんな兼任など意味がないことは明らかで、せいぜい家族会の批判をかわすための弾よけに使われるのがおちでしょう。

 「戦略の過ちは戦術では補えない」と言いますが、たとえ熱心なスタッフがいてもこれでは結果は最初から見えています。この現実の中でどうするのか、私たちは真剣に考えなければいけないでしょう。

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2011年9月 2日

山岡担当大臣

【調査会NEWS1074】(23.9.2)

 野田内閣の閣僚が決まり発表になりました。

 誰が拉致担当大臣になるのかと思っていたら、山岡賢次氏とのこと。驚き、呆然としたというのが正直なところです。山岡議員はこれまで拉致問題に関わった話を聞いたこともありませんし、それ以前に関心がありそうにも思えない人物です。また、拉致問題以外のことでも民主党の他の議員を含め評価する声を聞いたことがありません。小沢グループを押さえ込むためにこのポストに当てたとでも考えるしか理由が思いつかない人事でした。

 人事にはトップの姿勢が反映されますからこれもそういうことなのでしょう。あるいは野田総理は、「拉致問題を政府に任せては解決しない。国民が『自分たちでやらなければ』という意思を持つことが肝心だから、あえてこのような人事にした」という、高度な政治判断をしたのかもしれません。

 いずれにしても、こちらとしてはやりやすくなったとも言えますが。

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2011年9月 1日

山本美保さんに関わるDNAデータ偽造事件について

【調査会NEWS1072】(23.9.1)

■山本美保さんに関わるDNAデータ偽造事件について

※本日の記者会見で下記の発表を行いました。

  平成23年8月21日付山梨県警の回答と鑑定人による説明について

 特定失踪者問題調査会と山本美保さんの家族を支援する会、山本美保さんの家族で提出した7月20日付の質問状について、山梨県警からの回答が8月21日付でなされているが、この回答は最も重要な部分に疑義があり、受け容れることのできないものである。

 回答は他のところでは「承知しています」などと含みを持たせているのに、最後の二つの質問、すなわち

・鑑定人は、捜査機関との癒着・特殊な関係等はないか。捜査機関の期待する鑑定人ではないか。
 との質問には「ご指摘のような関係はありません」

・鑑定人は当該事件に利害関係はないか。
 には「利害関係はありません」

 との断定的な回答をしているが、その根拠は一切記載されていない。山本美保さんに関わるDNAデータ偽造事件で問題とされているのは技術的な信頼性の問題ではなく、最終的な結論が他の要因とことごとく矛盾しており、人為的なデータの偽造が行われていると思われることにある。

 回答中に3回出てくる「DNA鑑定についての指針(1997年)」は、その策定過程自体が上記2点を疑いうるものであり(別紙参照)根拠も示さず否定できるものではない。

 また、この回答に付けられている文書では「当該鑑定人にあっては、本件鑑定書に関してご家族に対して誠意を以て説明を尽くすとの意向を一貫して示されており、今後の日程調整にご協力をお願い致します」とあり、県警からはその後再三再四説明の日程を決めて欲しいとの督促がなされている。しかし本回答において最も重要な部分に答えないままで当事者の説明を聞けば「警察はちゃんと説明しているのに家族や支援者だけが納得していない」という誤った構図を作りかねない。昨年12月6日山梨県議会での質疑の中で県警本部長が「(平成16年)DNA型鑑定をした鑑定医を御家族がみずから訪問され、鑑定結果について直接、説明を受けておられます」と答弁していることからもそれは明らかである。

 これまで行ってきた質問への県警の回答は常に疑惑が深まるだけのものだった。例えば特定遺体との照合をしているという話は平成16(2004)年3月5日の発表まで家族は一切聞かされていないのに、県警ではそれ以前に4回ないし5回説明していると強弁している。そのうちの1回である平成15(2003)年11月7日に森本美砂さんが県警に行ったときのことについて、平成16年3月17日付の県警回答では身元不明遺体の「ネックレスとGパン、下着」の写真を見せたとしているが、平成21(2009)年6月4日付の回答では遺体の写真も見せたことになっている(実際には着衣など遺留品の写真のみを見せ、「これは違いますよね」といった、極めて軽い聞き方をしただけである)。

 このような状況では県警から何度回答文書を受け取り、また説明を聞いても時間の浪費にしかならない。本件はそもそも山梨県警の問題というより警察庁、あるいは首相官邸レベルの問題である。ことは山本美保さんのみに留まるものではなく、他の特定失踪者、さらに拉致事件全体への政府・警察の取り組みに重大な疑義を抱かせる問題であり、県警に責任転嫁をするのではなく、責任ある説明を求める次第である。

  平成23年9月1日

特定失踪者問題調査会代表 荒木和博
同 理事 山下滋夫

(資料)「DNA鑑定の指針(1997年)」について

 名古屋大で2回目のDNA鑑定を行った勝又義直・同大医学部教授(当時)は山梨県警回答文の中に3回出てくる「DNA鑑定の指針(1997年)」策定の責任者であり、平成16年(2004)県警発表の2年後、平成18年(2006)に科警研の所長になっている。

 「DNA鑑定の指針(1997年)」は「日本DNA多型学会」の中に設けられた「DNA鑑定検討委員会」が作成した指針である。この指針は勝又教授が委員長のときに作られたもの。平成8年(1996)9月にDNA鑑定ガイドライン作成の作業が始められ、翌月勝又委員長が起案した「DNA鑑定についての勧告(案)」が各委員に配布された。

 同年12月5日、委員会が開かれ、「DNA鑑定についての勧告(1996年案)」が原案として検討された。この時には、以下の検査の再現性の保証の問題についてはいずれの委員からも異議ないし修正意見はなかった。

2 一般的注意

 4)検査の再現性の保証

 DNA鑑定に用いる手法は学問的に確立されたもので少なくとも二カ所以上の独立した機関で実施できるものであるべきである。また、DNA資料あるいはDNA未抽出の証拠資料は再検査の可能性を考慮して保存されるべきである。証拠資料が微量で全てを用いて検査せざるえない場合には、さらに高感度の検査法が開発されるまで実施しないことが望ましい。やむを得ず証拠資料の全量を使用する場合は、資料のDNA量と個々の検査で用いたDNA量を明示すると共に鑑定経過を詳細に記録した実験ノートを開示すること、及び可能ならば関係者ないし外部の第三者の立会いのもとで実施することが望ましい。

4 刑事鑑定について

 3)一般的注意の項で述べた検査の再現性の保証については厳密に守られる必要がある。微量な資料で検査可能なPCR法を用いれば再検査のための資料の一部を残すことは一般に充分可能である。

 この案は委員全員一致で同日承認されたにも関わらず、12月27日に科警研の委員から修正意見が出される。勝又委員長はこの意見を一部取り入れ、翌平成9年(1997)1月17日、第一修正案を各委員に配布し意見を求めた。しかしその後も内容について科警研所属委員らだけが猛烈に反対し、警察の意向が強く反映された次の第五修正案でやっと決定している。また、当初は「勧告」とされていたものが「指針」になっている。

5)再鑑定への配慮
 繰り返し採取が可能な対照資料は別として、再度採取ができない資料の場合には、可能な限り再鑑定の可能性を考慮してDNA未抽出の資料の一部が保存されることが望ましい。資料の全量を消費する場合、鑑定人はそうせざるをえなかった状況を含め鑑定経過を詳細に記録するよう努めるべきである。すべての鑑定において、鑑定人は法廷の求めがあれば鑑定経過を詳細に記録した鑑定ノートを開示するべきであるが、資料の全量を用いた場合にはとりわけこのことがあてはまる。

 DNA検討委員会の委員である弁護士たちは勝又委員長に対して意見書を出しているが、結果的には科警研の委員に押し切られる形になった。以上のような状況を考えるとき、「鑑定人は、捜査機関との癒着・特殊な関係等はないか。捜査機関の期待する鑑定人ではないか」「鑑定人は当該事件に利害関係はないか」は当然に疑われるべき内容であるのに、理由無しにそうでないと断定すること自体に疑義を感じざるを得ない。

<その他の問題点>

 県警の回答にはそれ以外にも問題点がいくつもある。今後さらに明らかにしていきたいが、とりあえず気付いたことでも例えば次のようなことがある。

1の(8)「試料はどこでどのように保管されていたか」という質問について
 「薬包紙に包まれた乾燥させた骨髄は、採取した遺体を特定できるよう一連番号を記載した茶封筒に入れられ、山形大学医学部法医学教室の血液検査室内にある実験台の引き出しで保管されていました」との答えになっているが実際は実験台ではなく、ただの事務机である。

1の(10) 「保管中にDNAの分解、汚染、他のDNAの混入の危険はなかったか」という質問について

 「当該骨髄は、警察に提出されるまで、一度も開封されておらず、他のDNAの混入の危険はなかったものと考えています」とあるが封筒の上部は切り取られ、開いていた。一度も開封されていないという証拠はないはずである。

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園田一さん・敏子さんに関わる情報について

【調査会NEWS1071】(23.9.1)

■園田一さん・敏子さんに関わる情報について
(会見で配布した資料と若干変わっています)

 昭和46年(1971)12月30日に鹿児島県大崎町の自宅を出て宮崎空港に車で向かう途中失踪した園田一さん・敏子さん夫妻については調査会が設立された平成15年以来様々な情報が飛び交っている。特にこの3年ほどの間、様々なルートで園田敏子さんの目撃情報が流れており、その中には写真・毛髪などの偽情報も含まれているため混乱を来している。

 調査会では代表荒木が8月29日園田さん夫妻の長女利恵子さんのお宅(鹿児島県鹿屋市)を訪れ、これまでの経緯についてご家族、関係者と情報の突き合わせ等を行った結果、独自に入手した以下の情報については公開し、今後の情報収集を進めるべきと判断した。なお、下記情報については荒木が韓国ルートで収集したもの及びA氏本人に確認したものである。

・情報源は2000年代になって脱北、韓国に入った脱北者男性A氏(父親が在日帰国者)。

・A氏は拉致された日本人女性と北朝鮮で同じ町に住んでいた。A氏の両親がその女性と親しかった。本人も直接話をしたことがある。

・その女性は平成20年(2008)現在74歳。(園田敏子さんは79歳)

・1970年頃拉致されたという。当時43歳位。(園田敏子さんは失踪当時42歳)

・夫が車両を運転して空港にいく途中で拉致された。(これはその通り)

・「チマ」とか「シマ」という地名を聞いた。(鹿児島県のことか)

・息子と娘がいる。(これはその通り)

・夫は抵抗して海上で死亡した。(全く別に園田一さんの北朝鮮国内での未確認目撃証言もある)

・北朝鮮で対南連絡所の幹部と結婚した。その幹部は前妻が亡くなっており、前妻との間に娘が一人いた。夫(連絡所幹部)が亡くなった後、平壌から追い出されて前妻の娘の住む咸鏡北道で暮らした。そこで周囲に住む日本からの在日朝鮮人帰国者に自分の身の上を話した。A氏は1980年代からそこに住んでいるが、話し始めたのは1994年金日成が死亡してから。

・A氏が脱北する前に女性は同じ咸鏡北道の別の地域に移った

 とりあえず公開できるのは以上の情報だが、同じ女性について複数の情報源からのさらに詳細な情報がある。一方前述のように偽写真や他人の頭髪がもたらされたこともある。総合的に判断すれば、偽情報が混在しているとは言え、この女性が実在の人物で、それが園田敏子さんである可能性は否定できない。これを機会に調査会としてもさらに調査を進めるが、これまでかかわって来た民間及び政府機関関係者もあらためて重要な情報と認識して積極的な対応を進めるよう求めるものである。

     平成23年9月1日
     特定失踪者問題調査会代表 荒木和博

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本日の記者会見について

【調査会NEWS1070】(23.9.1)

■本日の記者会見について

 本日の記者会見は次の内容で行います。報道関係各位には御多忙のところ恐縮ですがご対応方よろしくお願いします。

1、園田一さん・敏子さん夫妻に関する情報について
2、山本美保さんに関わるDNAデータ偽造事件について
3、今後の現地調査について
4、その他

◎日程 9月1日 木曜 14:00~
◎場所 調査会事務所4階(これまでは3階でしたが、今回は4階で行います)
◎中継 (株)NetLiveのご厚意によりインターネットでの生中継を行います。報道関係以外の方もご覧下さい。

http://www.netlive.ne.jp/archive/SII/index.html

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