平壌駅前のアパート
【調査会NEWS1226】(24.8.21)
8月9日の救う会東京連続集会で披露された蓮池祐木子さんから増元るみ子さんへの手紙には祐木子さんとるみ子さんとは、拉致をされた昭和53年(1978)の秋から翌54年10月25日まで、約1年間一緒に生活したとされています。その場所は「平壌駅からあまり遠くないアパート」とされていますが、ソウルにいる呉吉男博士が特定失踪者生島孝子さんと思われる女性とその前で出会ったアパート(二人ともそのアパートの中に居住していた)も同じ建物である可能性があります。
(Googleマップの下記のアドレスで出てくる建物、画面上隣りが高麗ホテル、下には平壌駅がある)
http://maps.google.co.jp/?ll=39.007607,125.736718&spn=0.001151,0.002004&t=h&z=19&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1
去る3月、日弁連に対して行った第2次人権救済申立の折の生島さんに関する申立書の中で、それに該当する部分は次の通りです。
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ドイツに在住していた韓国人学者呉吉男は北朝鮮と関係の深かった音楽家尹伊桑に誘引され、家族を連れ1985年11月北朝鮮に入った。その後1986年11月に家族を残し出国したまま北朝鮮には戻らず、現在韓国で家族を救出する運動を行っている。
呉吉男は北朝鮮で政府認定拉致被害者石岡亨と思われる男性及び生島孝子と思われる女性を目撃している。以下は2004(平成16)年1月21日、ソウル市内の自宅に呉吉男を調査会代表荒木和博が訪ねたときの記録である。
その女性と会ったのは1986(昭和61)年。当時自分は44歳で、住んでいた場所は平壌市中区域東興洞、蒼光通りに面した平壌駅前デパート横の20階建てアパートだった。自分はその12階に住んでおり、その女性もそこに住んでいたが、建物の中で顔を合わせたことはなかった。ひとつの階に6〜7世帯が入っており、工作員が住んでいた。当時この女性はご主人が外国に出ていたようだ。自分と同じ位の年格好に見えた。子供がいたかどうかは不明。
その女性はトロリーバスに乗ってきた。中庭で会い、北朝鮮の人と異なった印象を受けた。憂愁を帯びたような感じ、清潔な印象。丸顔で印象は生島孝子さんとお姉さん(馨子さん)の写真と似ている。身長は155センチ程度ではないか。
知的で、少なくとも高校くらいは出ていた感じ。大人しい、静かな感じの人。ツーピースの服を着ていた。
その女性の方から「ヨーロッパから来られたのでしょう」と声をかけてきた。「(自分は)日本語を教えています」とも言った。
その後もう一度見かけた。人からその女性が日本語を教えていると聞いた。
蒼光通りには食堂が多い。半分外貨、半分北朝鮮ウォンでやる食堂で朝鮮総聯関係者が多かった。こういうところに出入りする人間はこの女性を見た可能性がある。
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生島孝子さんのお姉さんである生島馨子さんは先日蓮池祐木子さんに、「平壌駅からあまり遠くないアパート」がここのことか、他に情報がないかを尋ねる手紙を送っています。残念ながらこれに対し蓮池さんからは政府の拉致問題対策本部に「こういうものが届くと困る。対策本部を通すようにして欲しい」との連絡があったとのこと。私たちからの問合せならともかく、失踪者の家族からの問合せですから直接返事をしてもらいたいとも思い、私から蓮池さんへもその旨書いた手紙を送りました。
ただ、以前は特定失踪者のご家族が手紙を出しても蓮池さんからは丁寧な返事が返ってきており、今回こういう対応になったのは、生島さんのいたアパートと祐木子さん・増元るみ子さんのいたアパートが同じであったという証明なのかも知れません。
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