膨らむ疑問
【調査会NEWS1322】(25.3.29)
昨日、齋藤純一理事(救う会山形代表)と共に山形市の布施範行さんのお母さんのお宅にお邪魔しました。先日の現地調査の報告が目的です。布施範行さんは昭和52(1977)年3月に名古屋市北区のアパートから失踪しました。未確認ですが北朝鮮での生存情報もあり、失踪状況も不自然なケースです。
今回調査の過程でお母さんにお聞きして不思議に思ったことがいくつかあります。その一つは失踪後にお母さんが名古屋に行って千種警察に赴いたとき、住んでいた下宿やバイト先に行きたいと言ったところ、応対した男女2人の警察官から止められ、このまま山形に帰るようにと言われたということです。その止め方が尋常ではなかったためお母さんには強い印象があるそうですが、このアパートの家主であるY氏は朝鮮総連の幹部で、家族が北朝鮮に帰国していました。あるいはこの時点で、警察はY氏のことから失踪が怪しいと思っていたのかも知れません。ちなみにY氏は5年ほどまえに亡くなったそうです。結局ご家族は一度もアパートを訪れないままでした。
また、布施範行さんは昭和51年3月に東京にある亜細亜大学を卒業生しています。住んでいたのは中央線国立駅の近くです。国立の三つ東京寄りが武蔵小金井で、この近くの東京学芸大の学生だった藤田進さんが失踪したのが同年2月です。
亜細亜大は武蔵小金井の隣りの東小金井とその隣りの武蔵境の中間にあります。そのもう一つ先が三鷹で、政府認定拉致被害者である久米裕さんは三鷹市役所のガードマンでした。拉致されたのは昭和52年の9月です。また中央線沿いではありませんが三鷹市の南、調布市にある電気通信大学の学生だった高野清文さんが神津島で失踪したのが昭和51年7月です。布施さん、藤田さん、高野さん、そして久米さんがそれぞれ同時期に極めて近い範囲にいたのは果たして偶然でしょうか。
布施さんが失踪したのは名古屋ですが、山形出身の人がなぜ名古屋の会社に就職したのかも不明であり、布施さんについてはこれ以外にも様々な疑問点があります。今後さらに調べていきたいと思いますが、警察も「特別指導班」なるものを立ち上げたなら、もっと積極的にご家族に情報開示をしてもらいたいものです。
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