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2013年6月 6日

1万キロ現地調査15回(福岡・公開分)報告

【調査会NEWS1353】(25.6.6)

 昨日の記者会見で発表した資料です。福岡現調のうち公開者分をお知らせします。


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(1)加藤久美子さん(拉致濃厚)

生年月日 : 1948(昭和23)年1月1日

当時身分 : 会社員

当時住所 : 福岡県北九州市八幡区

失踪日 : 1970(昭和45)年8月8日

最終失踪関連地点 : 福岡県北九州市八幡区 大蔵電停

失踪状況 : 

 妹と一緒に家を出て500メートル程離れた旧西鉄路面電車の大倉電停で別れた後行方不明になる。小倉にあった勤務先会社に向かうはずだったが会社には出勤していない。週末に編み物の先生とお茶会に行くので着物を出しておいてという話を家族にしていた。
元北朝鮮工作員安明進氏が、「1989〜90年、金正日政治軍事大学で横田めぐみさんらと一緒にいた女性に似ている」と証言。

■調査結果

○自宅があった高台の住宅街から妹さんと別れた旧西鉄大蔵電停付近の地理状況を当時の住宅図と比較しながら確認作業を行うとともに、付近の当時から所在した店舗等で聴取を行った結果、「当時誰かが電停近くでいなくなったという噂がたっていた」、「2〜3年前に警察が付近の聞き込みに回り、旧大蔵電停があった場所に情報提供を呼びかける立看板を設置していた」との情報を得ることが出来たが、当時の詳細な状況については不明のままとなった。なお、この看板は警察でなく個人で立てたものとも言われている。

○旧大蔵電停の前には「大蔵公園」が当時からあり、この付近では加藤久美子さん失踪の1か月程前、女性2人が黒い乗用車に乗った男数名に襲われそうになったことがあった。

○旧大蔵電停付近の調査後、勤務先があったとされる小倉駅方面に当時の路面電車の経路沿いに移動し旧魚町電停付近で当時の写真と比較しながら市街地状況を確認したが、当時も現在と同じように人通りが多いにぎやかな地域であったことが、地元の方々からも聞かれ、総合的に判断すると勤務先の最寄り駅付近ではなく大蔵電停周辺で拉致されたと考えるほうが自然であるとの結論に至った。

○この調査が報道された後、加藤さんの失踪当時の友人が名乗り出た。今後友人の情報を家族と突き合わせるなどして当時の状況についてさらに検討していきたい。


(2)三浦和彦さん・波多野 幸子さん(拉致濃厚)

094_p1(三浦和彦さん)

生年月日 : 1952(昭和27)年3月28日

当時身分 : 会社員 

当時住所 : 福岡県糟屋郡


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(波多野幸子さん)

生年月日 : 1955(昭和30)年2月14日

当時身分 : 会社員 

当時住所 : 福岡県福岡市中央区

失踪日 : 1974(昭和49)年1月12日

最終失踪関連地点 : 福岡県糸島市(当時は糸島郡志摩町)芥屋大門(けやのおおと)

失踪状況 : 
二人は会社の同僚だった。1月12日、会社に二人ともいつもどおり出勤。同日から帰宅せず。15日、芥屋大門の海岸近くに三浦さんの車が放置されているのが見つかる。車内に三浦さんの免許証、コート、波多野さんの弁当箱などが置かれたまま。付近に両人の靴が片方ずつ落ちていた。三浦さんは退社前、同僚に「前原に行く」と告げ、波多野さんの残業が終わるのを待って車で前原方向に向かったと思われる(前原は芥屋大門に行く途中)。

■調査結果

波多野幸子さん、三浦和彦さんの最終失踪関連地点である芥屋大門で地元の方々に当時の状況等について話を伺いながら現地調査を行った。

○三浦和彦さんの私有車が置かれていた芥屋の大門周辺は、戦前から半島人の密航が数多く発生していた場所で、1920年代には多い時で一度に60名ほどの密入国事案があった場所であり、現在も監視所まで設置して警戒している場所である。

○車が置かれていた場所は芥屋の大門の展望台に続く道の入り口脇で、この道の登り口から数メートルの位
置に靴が落ちていたという。

○当時の警察は展望台へ続く道の途中に靴が置かれていたということから、「自殺説」も出ていたようだが、展
望台付近で飛び降りたとしても直接海に落ちることはなく、遺体もないことから自殺の可能性はほとんどないと思われる。

○当時の芥屋の大門は街灯も少なく、夜間は真っ暗な状況だったと当時を知る人は証言し、地元の人は「夜は誰も近づかなかった」という。失踪当日は土曜日で、三浦さんが先に仕事を終え、残業をしていた波多野さんを待ち、それから前原方面に向かった模様だが、波多野さんの仕事が17時頃に終わったとしても1月であれば既に日は落ち、夜の状態であり、それから芥屋の大門まで車で移動しても18時30分は過ぎていたと思われ、仮に芥屋の大門まで二人が来たとしても何も見えないような状況だったはずである。そのような暗闇状態の中で、展望台方面へ登って行ったとは思えない。「当時、若いカップルが車などで行くデートスポットは、福岡市内から比較的近い地域に所在していた」との話もあり、デートスポットとも思えぬ場所(芥屋の大門)に何故車があったのか、大きな疑問が残る。

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(3)尾上 民公乃さん(拉致濃厚)

生年月日 : 1966(昭和41)年11月26日

当時身分 : 飲食店アルバイト

当時住所 : 大阪府八尾市

失踪日 : 1987(昭和62)年6月6日

最終失踪関連地点 : 大阪市中央区

失踪状況 : 

 6月5日午後11時30分頃、大阪市北区内の飲食店の勤めを終え、同僚女性と近くのスナックで飲食後、その同僚女性の車に同乗。6日午前3時50分頃、心斎橋1アンディコールビル前北側の路上にエンジンをかけたまま停車し、尾上さんを助手席に残して同僚女性が近くのビルの飲食店にいる知人と連絡をとりに行き、約30分後に戻ると車ごと消えていた。

 翌7日早朝、博多港の沖浜町中央埠頭東側岸壁から車が海中に落ちるところを向かい側の堤防にいた釣り人が目撃。福岡県警が車を引き上げた。ドアはいずれも閉まっていたが助手席の窓は開いていた。車内に遺留品はなかった。尾上さんは免許を取得したばかりで運転歴殆どなし。

■調査結果

車が落ちた博多中央ふ頭の調査を行った。

○車が落ちたとされる中央ふ頭の現場を特定し、落ちた状況について検証を行った結果、車はある程度加速した状態でなければふ頭に設置されている段差を乗り越えられず、当時車が落ちるところを目撃した釣り人の証言が新聞記事に掲載され「エンジンをふかす音とガリガリという音が聞こえた」とある事から、誰かが作為的に車を海に落とすため、エンジンの回転数を上げていたとみられる。

○尾上民公乃さんは、車の運転免許は所持していたが、ご家族の証言から民公乃さん自身は車の運転をほとんどしたことがない、いわゆる「ペーパー・ドライバー」だったことが確認されており、そのような女性が一人で大阪市内から約650キロも離れた福岡県まで車を運転したとは思えず、第3者が車を福岡県内まで運んだと考えるのが妥当と思われる。また、車が落ちた中央ふ頭の現場は、倉庫群の奥に位置し、初めてふ頭を訪れた人物では分かりにくい場所にあることから、ある程度土地勘がある人物が車を運んだと目されている。

○現場では、「はたして民公乃さんは福岡まで車と一緒に運ばれたのか、大阪市内で車から別の場所に連れ去られたのか?」と、民公乃さんの行方に議論が集中したが、現時点では大阪市内及び福岡県内での目撃証言もなく、 どちらも断定するまでには至らなかった。

○今回埠頭の状況がよく分からなかったため、古屋拉致問題担当大臣を通し現場についての説明を依頼したところ大阪府警及び福岡県警の担当者から福岡中央警察署で説明を聞くことができた。

※ 前回(第14回)までの累計走行距離:3,618km 今回の走行距離(北九州ー糸島ー福岡):298km 累計走行距離 3,916km

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