圧力と対話
【調査会NEWS1522】(26.4.10)
田母神俊雄・元航空幕僚長がよく講演の中で話すことに「日本の外交は『言うことをきかないと話し合いをするぞ!』というもの」というのがあります。
確かにその通り。私が救う会全国協議会にいた当時の平成11年(1999)年末、最近話題の河野洋平・外相(当時)に家族会・救う会で面会したとき「力ずくで取り返すことはできない」と言われたことがあります。お恥ずかしい話ですが、河野外相が余りにも自信に満ちた顔で言ったもので、そのときは「そういうものなのかな」と思ってしまいました。実際は「力ずく」も選択肢の一つのはずです。
さて、最初から「力ずくではやりません」と言ってしまって相手は真面目に話し合いに乗るでしょうか。それとも「私たちは力ずくではやりませんが、アメリカが力ずくでやってくれます」という意味なのか。いずれにしても情けない話ではあります。
昭和31年(1956)6月号の月刊「文藝春秋」に掲載された論文に「軍艦旗の下の北洋漁業」というのがあります。昭和15年(1940)青森県大湊の駆逐艦隊でソ連の暗号解読を担当した海軍将校府本昌芳氏のものです。この中にソ連に拿捕された北洋漁業の漁船を日本の駆逐艦隊がカムチャッカまで行って威圧し、取り返す話が出てきます。戦闘したわけではありません。目の前で演習をしただけです。当時対米開戦の可能性があり、日本としてはソ連を刺激してはならないはずでしたが、それでもこういうことができたのです。要はやるかやらないかでしょう。
圧力と対話の「圧力」とは何か、何をすれば圧力なのか。もっと正面から考えるべきではないかと思います。
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(月刊「文藝春秋」昭和31年6月号掲載)
軍艦旗の下の北洋漁業
カニの卵巣に舌鼓を打ちながら眺めたオホーツク海のどす黒い海面に注ぐ限りなき郷愁!
府本昌芳
筆者紹介
昭和十四年、海軍大尉としてハルピンに駐在したが、その後、カムチャッカ漁業係長、在ソ大使館附武官となり、終戦時は海軍中佐、大本営諜報部對ソ班主任。
北洋の魚屋ぐらし
一九四〇年三月、スンガリー(松花江)はまだ厚い氷にとざされていた。
「今度はカムチャッカの魚屋ぐらしですよ」
私は下宿の主人にそう云って、一年に及ぶハルピンの生活に別れを告げたのであった。
その頃、海軍士官でソヴィエト関係の要務を担当するものは、東京外語のロシア語科に一年間在学した後、ハルピンの勤務を経て、北洋漁業保護の任務につくのが、お定まりのコースになっていた。
が、太平洋上の派手な海戦で、アメリカ艦隊を海の藻屑と屠り去ることも夢見ていた、若い海軍大尉の身として、これは全く気勢の上がらない転進であった。けれども、一年に及ぶ満州での生活は、私を反ソ防共的人物に仕立て上げることには確かに役立った。
ノモンハン事件では、関東軍の主張する国境には歴史的根拠がない、ということを知りながらも、さて、數多い負傷兵が運ばれて来てみれば、何クソッ!と民族的な反抗心が起こってくる。アムール河を船で下ってみれば、日ソ両軍が物々しい見張りやぐらを組み立てて睨み合っているし、内モンゴルの包頭に行けば、共産勢力との生々しい戦闘の物語りを聞かされる。というわけで、とにかく反ソ防共が何となく身についてしまう、というのが当時の軍国満州の姿であった。
従って、私が北鮮の羅津から、船で新潟に着いた時には、「ジューコフがノモンハンで日本陸軍をやっつけたのなら、俺はカムチャッカでベリアに一泡吹かせてやろう」という、無鉄砲な青春の血が燃えて、大いに気炎を上げたものだった。
「神風「に乗って
赤レンガ、といえば海軍省の代名詞であった。
その一角に、軍令部第七課があって、イギリスを除く全欧州に関する情報を扱っていた。
その中の「R班」と俗称されていたものが、旧海軍では冷飯食いに属していた対ソ諜報班で、これが私の親元であった。
私は、ここで北洋の出漁予定や、日ソ漁業協定に関する情報を聞いて、早速出発するつもりでいた。ところが、意外にも特務班の方にも用があるという。特務班とは、海軍のブラック・チェムバー(外国暗号解読部)であったのだ。
暗号解読といえば、素人目にはスリルのある興味津々たる仕事のように見えるかもしれない。だが、実際はそんなものではなく、語学と数学を応用した科学的な仕事であって、その上、電子計算器もないときては、やたらに時間がかかるばかりで、お経を読むようなわけにはゆかなかった。しかも機密保持の関係上、自分の仕事を家庭で喋ったり、飲み屋で鬱憤をはらすこともできない。私はそんな不自由なことは嫌いだ。地獄へでも顔を出すような気持で、私はおっかなびっくり、特務班のドアをノックした。
だが、ドアを開けると、顔馴染みの少佐が、ニッコリ笑って声をかけた。
「やあ、御苦労さん。実は君にこの夏の漁期中、こいつを使って貰いたいんだがね」
差し出されたのは、二冊のロシア暗号書であった。いずれも、暗号解読専門家が苦心の結果作り上げた血と汗の結晶である。これをカムチャッカの沿岸で解読しながら、大いに働けという注文なのだ。
ノモンハンの仇をカムチャッカで討つという思いがあらためて胸にこみあげてきた。が、さて暗号の嫌いな私に、ソ連の暗号が読みとれるかどうか。
「大いに頑張ります…が、弱りましたな」
「なに大したことはないさ。まず、トーチカ(句点)を見つけ出すんだ!」
なるほど、渡された数枚の数字暗号に目を通すと、同じ数字符が三つ四つ、電文の中の同じような関係位置にある。そこでトーチカ符字を探し出し、引き算をすると、その日の乱数が知れてくる。あとは乱数表と対照すれば解読できるというわけである。
「この二冊は、絶対誰にも見せてはいかん。君が解読した暗号電報は、司令と艦長だけに限って報告する。情報は口頭で届け、文書に残してはならないぞ」
軍極秘…私は鞄をしっかり抱きしめて、海軍省の裏門から消えるように出て行った。駆逐艦「神風」水雷隊長というのが、私の貰った辞令であった。
その夜、私は青森へと向かう二等列車の一隅で、まんじりともしない一夜を送った。
抜き身は禁物だ
「神風」は、同型の「沼風」「波風」「野風」と共に第一駆逐隊を編成、大湊要港部に配属されており、私はその副長相当の先任将校となった。
一九二二年に進水した「神風」は、その頃全くの旧式艦であったが、それでもこの駆逐隊こそ、帝国海軍が対ソ兵力として割当てた最精鋭部隊であった。しかも、大湊要港は場末の出店にふさわしく、取り立てててこれという施設もなく、おいぼれ司令官や威張り屋参謀などが、北辺の守りを固めていた。
四月になるとカムチャッカ西岸へ向かうカニ工船が続々と出で立ち、ソ領沿岸のサケマス漁場へも仕込船が送られる。だが、駆逐隊は盛漁期になるまで、北海道周辺で訓練待機することになっていたので、二冊の暗号書は金庫の奥深くに仕舞いこまれたままであった。
連日、「月月火水木金金「の猛訓練がつづけられた。一応の成果が上がると、次には士気昂揚のためと称するボートレースが始まる。
「総員後甲板!応援練習始め!」
「-われは神風、名のごとく、神の助けはわれにあり…遮るものはブッ飛ばせ!」
先任将校自作の応援歌が高唱され、日の丸鉢巻の応援団長が、三番砲の上に登って、ハイ、ハイ、チョイチョイ、チョイ…と拍手の練習が始まる。
いよいよレース当日となれば、大小数十の幟が甲板に立ち並んで、応援団長は、たすきがけに日の丸の扇子を持ち、顔には墨で髭を書いて、主砲指揮所から総員を叱咤する。あたら青春を軍人の「すべからず「で過ごし、人間の馬鹿らしさが恋しかった私の心が、乗員の胸に通ったのだろうか、「神風」のクルーはその応援歌と共に部隊第一の成績をあげた。
乗員の有志で「神風座「が結成されたのも、この頃であった。
「先任将校!ギターと島田とチョン髷のかつら、それから長襦袢を買って下さい」
先任も道具係りに早変りである。
「総員―演芸聞き方!第三区に集合!」
とは、長い間全く慰安のない北洋に出動するために、是非必要な号令であった。
出港前には乗員に飲ませることを、先任の職務と考え、自分も飲み、また飲まされもする。
「先任!飲みに来てください」
テーブルの上には、一合茶碗にナミナミとつがれた酒。それが忽ち十数杯、目の前に整列する。これを五分で飲めない奴は、士官のツラをする資格がない…これじゃ、とてもたまらないから、一寸便所へと逃げ出せば、またストームにかかって拿捕される。
やがて千鳥足の先任を、四五人の水兵が、ワッショイ、ワッショイと部屋に担ぎこむ。
「明日は甲板掃除なし。総員起こしは適当にやれ、だが軍艦旗をあげるまでには皆起きてろよ!」
軍隊は規則が破れるようでなくては強くならない。「べからず」じゃあ駄目だ。何でもやれというのが私の哲学だった。いよいよ出動が迫ると、皆一度はやりたい(、、、、)こと(、、)を(、)やる(、、)チャンスが与えられる。
「サックは持ったか?クリームはあるか?抜き身は絶対禁物だぞ!」
嬉々として上陸してゆくたくましい男たちの背中に、私は大きな声で怒鳴った。
ナ・セーヴェル
「神風」は千島列島に沿って北上した。私は自信に満ちて、北海の波の音を聞いていた。
「神風」ほど安全な社会はないのだ。私はすべての乗員を信頼し、すべての乗員は私を信じてくれる、と考えていたからである。
エトロフ海峡を過ぎた頃、私は金庫を開けて、例の暗号書を取り出し、自分の机のひきだしに入れると、上甲板に出て、煙突の後の方位測定機室へ上がって行った。私はもう演芸係でも、性病予防官でもなかったのである。
「どうだい、とれるかい?」
「ペトロフとウラジオはよく入りますが、カムチャッカの沿岸局は、まだ感度がありません…」
「そうか。願います…」
私とX兵曹の二人、二台の受信器、二冊の暗号書、これがブラック・チェムバーのすべてであった。
なかでも、X兵曹の技術は抜群であり、北千島に近づくまでには、カムチャッカ沿岸のソ連警備隊の無線局は、全部キャッチすることができた。
駆逐隊はシュムシュ島の片岡湾に着いた。ここを基地として待機し、いざという時には、四隻の駆逐艦が編隊を組んで行動する、という司令の方針が確認され、従って、ブラック・チェムバーの任務はなかなか重要なものとなった。私とX兵曹は、日夜受信機に神経を緊張させていた。
六月も半ばを過ぎたある日の午後、私は例によって、暗号書を手にして翻訳にかかっていた。突然、私はハッと息を呑んだ。そこに出ている符字―ザゼルジャンノ(拿捕)!「ハリューゾフ地区隊発ペドロパウロフスク司令官宛。日本漁船を拿捕す。地区…」
私は飛ぶようにして艦長に報告すると、続いて司令室をノックした。
「司令!拿捕事件が起こりました!」
「何?ハリューゾフか?」
八の字ひげの司令は、ギョロリと目玉を光らせた。
「先任!各艦長を呼べ」
私は上甲板に走り去る。
「信号兵!略語のクカラ(駆逐艦長 来艦せよ)!」
そう怒鳴ると、私は急いで兵曹のところに行った。
「おい、事件だ!ハリューゾフの電報を落とさないように…」
「承知しました。今夜は寝ないでやります」
焦った四人の艦長は、司令を中心として、ウィスキーで乾杯すると、足取りも軽く各々の艦へ帰って行く。いよいよ出動準備である。
前部発射管の両側に集まった水兵員に一応の指示を与えると、私は直ぐ部屋に戻って、暗号の解読を続けた。
「日本船をハリューゾフ河口に抑留す」
「日本人を尋問中…」
どれもこれも癪に触るものばかりだ。
「よし!ノモンハンの恥を雪いでやるぞ」
私は傍にあったチェリー・ブランデーをひき寄せると、グッと一気に飲みほした。
この私の部屋は、「バー神風」という渾名がついていた。
私は電気スタンドを、跳ね兎の浮彫りのあるグリーンのシェードのものに替え、二脚の椅子を青森から運びこんでいた。
バーにはマダムがつきものだが、これは原節子のブロマイドに勤めさせることにした。
ウィスキーは十二年のサントリーしかなかったが、ベルモット、キュラソー等の甘口に、ラム、ジンからアブサンに至るまで、東北の田舎酒屋で買いあさったアチラものが整列していたのである。
自慢のバーも、事件が起れば自粛閉店である。私は大事な酒瓶が艦の動揺で壊れないように、丁寧に箪笥の奥に終いこむと、ブリッジに上がった。
四隻の駆逐艦は、日本の最北端、国端崎を右後方に残し、白波を蹴立てて北上している。
「ナ・セーブェル(北へ)…」
私はブリッジの当直に立ちながら、ロシア語を口ずさんでみた。
東に見えるカムチャッカの山々は、白い雪で覆われていた。
マストが動いた!
「先任将校!司令が艦橋でお呼びです」ブリッジには、艦の司令と白面公子の艦長が肩を並べている。
「先任!ロシア語の解放要求書は書けたか?強い調子で書いてくれ。ハリューゾフに着いたら、すぐ行ってもらうからな」
私は傍にいた航海長I大尉に入港準備の作業指示を頼むと、士官室に下りた。そこではガッチリした身体のM通訳が解放要求書を清書している。
「先任将校!こちらの名前は何としますか?第一駆逐隊司令ですか?」
「いや、えーと、大日本帝国、北洋警備艦隊司令官、とね」
こうして職名だけは立派にでき上がったが、オンボロ艦隊の悲しさ、タイプライターがない。仕様がないから、大和魂のこもった美濃紙にカーボンを入れて、鉄筆で書くという仕儀になった。おそらく珍重すべき古文書として、今頃はモスクワの赤軍博物館にでも行っていることだろう。
一夜を海上に過ごした駆逐隊は、翌朝ハリューゾフの漁場に着いた。十二哩のソ連領海内に進入し、日ソ漁業協定による使用海面限度ー岸から三哩に錨を下ろした。
「内火艇用意!特別臨検隊員整列!」
私はこういう場合を考えて、かねて目をつけていた、屈強で明敏なK兵曹、N一等水兵等を随えて、ソ連の漁場に向かった。
海は静かであり、漁場は平和そのものであった。最寄りのソ連の漁船に乗りつけて、手紙を渡し、すぐ引き返すつもりで、わたしも気軽な気持ちだった。
だが、見渡したところ、漁船は影も形も見えない。恐慌を来して引き揚げてしまったのか?それともトラブルを避けたソ連側の処置だろうか?力の示威が平和交渉を妨げたような形になってしまった。
止むを得ず、私は一人で「無査証入国」を決意した。
軍刀をK兵曹に預け、一同を挺内に残して、私は砂浜に飛び下りた。丸腰になったことが、無法男のせめてものエチケットだったといえようか。
人の止さそうな中年の漁夫が歩いてくる。
「ペレダイチェ」(渡してくれたまえ)
差し出すと、彼は素直に受け取ってくれたので、幸いにも無事に艦に戻ることができた。
それから無遠慮なデモが始まった。駆逐隊は日本漁船が抑留されていると思われる河口の沖三哩に一列に並び、昼間は操砲教育、夜は照射訓練で威嚇する。
「日本艦隊、われを威嚇しつつあり」
「調書を作製せよ」
べリア指揮下のぺトロの司令官と、ハリューゾフの地区隊長は、盛んに暗号を交換して、私に情報を提供した。
三日目の夕方、私は思わずブランデーの瓶をひき寄せた。
「日本船を解放せよ-司令官」
こう来なくては…と私はいい気持ちになって部屋を出た。
「…帰すそうです、司令!」
司令は例の如く八の字髭をしごきながら、破顔一笑して、
「先任!デカしたぞ!今夜は一杯飲もうじゃないか」
更に次の暗号文で、私は全く安心した。
「明日午後二時解放すー地区隊長」
遂にその時が来た。
私はブリッジに上がって、十二サンチの双眼鏡で岸を見守っていた。
「あ、動いたぞ、漁船のマストが…」
やがて、ディーゼルの軽快な音を立てて、漁船はやってきた。日本人の顔だ。みんな日本人だ。私はただ無性に嬉しくて、わけもなく彼等に呼びかけていた。
熊カツの夕食
「艦長―三キロ、砲術長―四キロ半、機関長―五キロ、司令― 一キロ半」
これはボディビルではない。ハリューゾフ沖の鱈釣り競争の得点である。
まず大根の切れ端を針につけて、糸を深く垂れると、鰈が釣れる。
こいつはどこかの議員のように、どんな餌にも喰いつくのだが、肉はまずくて食える代物ではない。だから、甲板に引き上げると叩き殺して、その身を鱈の餌にするのである。
鱈は比較的深い所を泳いでいるものなので、水上に出るとぐったりとして動かない。
すぐ目方を測ることができる。
これを士官室の黒板に記録して、その日の優勝者を決めるのだ。
鱈の他にはカジカも釣れた。こいつは大変威張った格好をしているので、先任伍長という仇名がついた。
しかし「神風」士官が目指す第一等の獲物は、オヒョウだった。北海のヒラメといわれるオヒョウは、軍医長が刺身で食べることを許した唯一の魚であり、しかも、めったに釣れなかったので、これを釣ったときには、一本つけるという慣わしになっていた。
ところで、漁船が解放された日の夕方、機関長がオヒョウを釣り上げたので、蟹工船から贈られたタラバガニの卵巣の塩辛と一緒に一本つけて祝宴を張ることになった。ブラック・チェムバーの成功に気をよくした私にとって、その時の酒は甘露そのものであった。
翌朝の食事も美味かった。濃い紫のドロリとした蟹の卵巣を、ホカホカ湯気の立っている銀メシにかけて食べる。オツな味のホルモン料理である。つい女の話も口に出ようというものだ。
ハリューゾフからプチチー島にかけては、蟹の本場である。大きな洗濯桶十数個に、蟹工船からのプレゼントが満載されている。
「先任将校!食事点検をお願いします」
兵員食の試食点検は、先任将校の重要な任務だった。
「このフライ、うまいぞ…」
ハリューゾフでは、総員が蟹フライにありつき、士官室では蟹の鋏の刺身が夕食を賑わした。
こうして、第一回の出動は十分に報いられて、我々は片岡湾に引き揚げた。
またしばらく平穏無事な日が続いた。そんなある日、初めて出来た重油タンクと、漁業会社寄贈の集会所を見るために上陸した私は、突如、ビッグニュースを聞かされた。
「先任将校!熊を撃ちました」
「熊?どうしたんだ」
「海峡を泳いでいたのを、ボートで追っかけたんです。一匹は足を舷門にかけて登ろうとしたのをズドンと…」
その夜は総員の食事が、熊カツで潤った。とにかく食べることしか楽しみがないし、ふだんは碌なものがないから、これは大した御馳走だ。こいつはいけるぞと、一ポンドもある熊肉を貪り食って満腹した私が、上甲板に出て、一服しようとすると、目の前にダラリ
とぶら下ったものがある。はっと思ってよく見ると、何と赤ムケの熊の手足。思わず私室に轉げこんで、ジンを呷ったことである。
こうして盛漁期も過ぎ、ブランデーもそろそろ底をつく七月末、私は日本漁船難破の情報を解読した。カムチャッカの南端、ロバッカ岬の西岸である。我々は急行した。しかし、漁夫の姿は見えず、間もなく「日本人を抑留」という、ロバッカ岬警備隊の暗号電報が解読された。
海難救助は艦隊の任務である。しかし、既に外国の官憲に抑留されている者を、現場で軍艦が収容することは、外交上の問題であった。だが、べリアの部下たちを悪鬼のように考えていた我々は、感情が先に立ってしまい、現地で力を背景にした日ソ交渉によって、抑留者の解放を求めようとしたのである。
私はボートを仕立てると、ロベッカ岬哨所の東側の岸に向かい、一人でその砂漠に飛び下りた。
「うまく守備隊長に会えないものか…」と一歩踏み出した時、私の目にとまったものは、真新しい大きな熊の足跡だった。私はシムシン島で食べた熊のことを思い出さぬわけにはゆかなかった。あの時打ちとった母子二頭の熊を求める父熊ではないのか。熊には国境がない。そして獣にも涙があるのだ。そんなことを考えながら、私は丘の急斜面をよじ登って行った。
丘の上は花畑だった。三寸ほどの背の低い花が、短い夏に精いっぱい生を楽しんでいるように見えた。が、花に感情を催している時ではない。右前方三百メートルの所に、黒い影が立っている。剣附銃を手にしたソ連の警備兵なのだ。
私は彼に呼びかけた。抑留者の解放を求めた。しかし彼は五十メートル以内には近寄らず、手を左右に振りながら、向こうの方に行ってしまった。
私は釈放要求書を花畑において皆が心配している神風に帰った。
北洋への郷愁
「ペドロバウロフスク司令官発、ロバッカ警備隊長宛。 明朝MO艇を派遣す。日本人を乗艇せしめ、ペトロへ送致せよ」
私が訳した暗号文は、もはや我々の要求が容れられないことを明かにしていた。
その翌朝、霧の中に二隻のMO艇(小型の駆潜艇)を認め、続いて、一通の緊急電報が訳読された。
「司令官発。警備艇ゼルジンスキー号を派遣す」
予期した時刻にゼルジンスキー号の姿が現れた。「神風」のマストに国際信号が翻る。
「交信したきことあり」
が、ゼ号はこれを全く黙殺して。ロバッカ岬を東から西へと過ぎて行く。
「行進を起こせ!強速力となせ!」
「神風「のマストには、国際信号と並んで、指令用の海軍信号が翻った。
私は暗号書を片手に、X兵曹が受信するゼ号の報告を片っ端から解読する。
「われ、日本艦隊の追跡を受けつつあり」
ゼルジンスキー号は八百トンほどのフリゲート艦で、太平洋艦隊のものではなく、国境警備隊の武装パトロールであった。このかよわいソ連船を四隻の日本駆逐艦が追いかける…ブラック・チェムバーがブリッジにまで進出して、刻々情報を解読する、ということは、日本海軍の歴史を通じても、例のない成功であったが、平時に於ける日ソ交渉の求むべき道ではなかった。
やがて、ゼ号は行先をハリューゾフに変更した。こうなっては仕様がない。私は司令に追跡が無駄であると勧告し、抑留者の収容をあきらめて、片岡湾へと引き返した。
こうして暗号書による私の諜報は、ソ連沿岸の警備状況を、根こそぎ明らかにしたが、ロバッカの一件は、私としても無法に過ぎ、後味のわるい思いである。
その上、モスクワの東郷大使を当惑させるような問題を与えてしまったのは相済まないことであった。たかが魚を獲るために、こんな大騒ぎをしないでもよいように、せめて国境の武装だけでも止めたいものだ、と今になって考えるのだが…
青春の血に燃えた私の冒険も、本来の任務には尽くすところがなかったが、それにしても、越境した私がよくまあ射殺されずに生きていたものよと、過ぎた昔を思うたびに、新たな感慨に耽るのである。
(了)
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