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2016年8月25日

『靖国の宴』三浦小太郎さん書評

『靖国の宴』について三浦小太郎さんが「やまと新聞」に書評を書いてくれました。許可を得て転載させていただきます。
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 百田尚樹のベストセラー「永遠の0」には、戦争で片腕を失い、戦後も苦しい人生を歩んだある老兵士が小説の冒頭部で登場するが、彼の言葉は、この小説全体の中でも最も深い感動を呼ぶもののひとつである。彼は、戦争は最悪のものだが、だれにも戦争をなくすことは出来ないと断言した上でこう語る。

「いいか、戦場は戦うところだ。逃げるところじゃない。あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない。戦場に出れば、目の前の敵を撃つ、それは兵士の務めだ。和平や停戦は政治家の仕事だ。違うか。」

 この言葉には、少なくとも戦争の現場に参加したものとして、いや戦争のみならず、あらゆる職場で現実の業務をこなしている人々の思いを代弁するものとして、どんな左右のイデオロギーにもびくともしない強さがある。そして、荒木和博氏の小説「靖国の宴」には、日本、韓国、北朝鮮、そしてアメリカの兵士たちの霊が登場してくるが、その全員が、兵士として命令に従い、国を守ろうとした点において共通している。荒木氏は彼らがこうして語り合える理由を、作中で的確に説明している。

「ここに来ている連中は皆戦って死んだ奴らばかりだ。それも自分のためではない、自分の祖国のため、他の誰かを守るためだ。素晴らしいことじゃないか。だからこそ、お互いに殺し合いをした人間同士がこうやって意気投合できるんだ。(中略)自分のために殺し合いをしていたら恨みしか残らないだろう。」

 大東亜戦争中日本兵として特攻隊に散った日本人と韓国人兵士、そして、親北派政権の先制攻撃を禁じた指令によって命を失った現代の韓国海軍兵士、そして彼らの捨て身の突撃によって撃沈された北朝鮮軍兵士、日本人拉致と潜入工作を繰り返し、最後に海上で自決した北朝鮮工作員。現実の世界においては敵と味方という存在でしかありえなかった人々が集える場所として、著者はあえて靖国を選んだ。

 彼らすべての共通点を、著者は副題の「戦って散った者たち」と簡潔に表現した。しかし、彼らにはもう一つ深い共通性がある。彼らは「国」のためだけに戦ったのではなく、いわんや、彼らの多くを実は見捨てた「政治権力」のために戦ったのでは決してない。彼らは、彼らなりに守れなければならない人を守るために、そして自分自身の、小さくても確かな正義を守るために行動し、そしてそのことを静かな誇りに抱いて散っていったのである。

 戦前、特攻隊として、また兵士として戦場に散っていった日本兵たちはもちろん、朝鮮人でありながら、戦前「日本軍」として戦った兵士が、現在の韓国と北朝鮮の兵士に対し、なぜ今は朝鮮人同士殺しあわなければならないのかと問う姿勢は、この朝鮮半島の現代史の根本的な矛盾と、しかしその中で人はそれぞれの運命を引き受けて、生き、そして死ぬしかないことを簡潔に表現している。親と恋人への想いを抱いて散った、粗野だが純粋なアメリカ兵も、なかなか魅力的なキャラクターとして登場する。

 それに対し、彼らを死地に追いやって恥じない政治権力の側、特に万骨の枯れた上に虚像の栄光を勝ち得た存在に対しては、著者はそれがどこの国の存在であれ厳しい批判の声を隠そうとしない。統一の意志もないのに、うわべの友好を演出するか、時には偽の対決姿勢を形作り、ともにそれぞれの国の兵士を危険にさらして恥じない南北朝鮮両国政府。自国民が餓死しているのに自らの権力を守ることしか眼中にない北朝鮮の独裁者。己の名誉欲に走り、自由の擁護者、英雄であるかのように自己を演出したが、実は臆病で無謀な戦争指導者に過ぎなかったマッカーサー。そして今現在、自国民が拉致されているというのに、何ら行動を起こすこともできない自衛隊と戦後日本体制などだ。これは、日本政府が第一次小泉訪朝時、事実上、金正日と共犯関係の形で、拉致被害者の死亡情報を日本国民に信じ込ませようとした事件が、著者に。国家権力が、それが左右いずれであれ、いかに人間一人一人の生命や思いを簡単に踏みにじるかをまざまざと見せつけたことに根差しているに違いない。

 そして本書は、作中人物中最も深い闇を湛えた存在である北朝鮮工作員に対しても、本人が平和な時代に北朝鮮の国家犯罪に加担していたにもかかわらず、決して否定的には描いていない。彼は、北朝鮮で生き抜くためには、工作活動が統一をもたらすという幻想を信じるしかなかったこと、たとえ資本主義国の現実を知りそれを疑うようになっても、最後には、自らが自決すれば、北朝鮮に残った家族が「英雄」として生きていける(逆に言えば降伏して己が生き延びれば家族の命は危険にさらされる)ことを思い、ためらわずに死を選んだ、南北分断の犠牲者として描かれる。しかもこの工作員が、北朝鮮でただ一度、拉致被害者にささやかな希望を与えたこと(これもまた見つかれば下手をすれば家族ぐるみ銃殺である)を書き添えることによって、独裁権力による工作員への徹底的な洗脳工作も、人間性を完全に破壊することはできないのだという希望を読者に示唆しているのだ。これはきれいごとではなく、著者が運動の過程で、韓国で複数の元工作員と出会った経験が与えた核心であるはずだ。

 靖国神社は、単に私たちが英霊を弔うために参拝するため「だけの」場所ではあるまい。それは戦後日本が英霊からどのように映っているかを常に私たちに問いかけるはずの場所でもあるはずである。(国会両院記者会 やまと新聞)

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