« 「しおかぜ」メッセージ収録のお知らせ 【調査会NEWS2733】(30.5.18) | トップページ | 絶望的観測 【調査会NEWS27334】(30.5.18) »

2018年5月18日

私的朴正煕論

 以下は5月16日の「今、日本から朴正煕を考える」で配付した資料のうち、私の書いた部分です。あくまで私的な思い入れということで、ご関心のある方は御一読いただければ幸いです。

 今回の集いは大阪で行われた朴正煕生誕100周年の記念シンポジウムに参加した三浦さんと私で東京でも何らかの朴正煕にちなんだイベントをやろうと相談したことに始まります。

 今回お話しすることとはあまり関係ないので一番後ろに持ってきましたが、ちょっと自分にとっての朴正煕について書いておきます。

 朴正煕は私の父と陸軍士官学校の同期生でした。年譜にある通り朴正煕は満州国軍官学校の予科を終えた後陸軍士官学校57期本科に留学します。この期は生徒が2400人おり、父は朴正煕と面識はなかったとのこと。ただし軍服が違っていたので満軍出身者は直ぐに見分けがついたそうです。

 この父に子供のとき「同期生が韓国の大統領だ」と聞いたことが、おそらく自分が朴正煕という人を知った最初だったと思います。それでもクーデターのとき私は5歳ですから何も記憶はありませんでした。記憶にあるのは中学高校のころ。私が中学2年のときが70年安保改定で、学園紛争の嵐が吹き荒れたときでした。中高一貫だった私の母校も例外ではなく、左翼的なことを言わなければまともではないという雰囲気でした。

 昭和48年(1973)8月8日、九段下のホテルグランドパレスから野党政治家金大中が拉致されるという事件がおきました。この日は私の17歳の誕生日でした。ただでさえ強面の朴正煕はこれによってさらに日本人の持っているイメージを悪化させました。当時は今と比べものにならないほど影響力のあった朝鮮総聯と、社会党をはじめとする左翼勢力はこぞって「独裁政権」を批判しました。

 その翌年8月15日、ソウルで初めての地下鉄、1号線ソウル駅・清涼里間が開通した日に文世光事件が起きて陸英修夫人が亡くなりました。犯人は在日で、北朝鮮工作員に使嗾され日本の警察の交番から盗んだ拳銃で犯行に及んでいます。本来であれば日本はその責任を痛感すべきだったのですが、朴正煕=悪役というイメージが強く、少なくとも国民レベルで贖罪意識はあまりなかったように思います。

 しかし、いつの頃からか分かりませんが私自身には「本当にそうなのか」という意識が芽生えてきました。私より何歳か上の、学生運動をやっている人たちに対して、良し悪し以前の問題で「この人たちは本気で国や社会を変えようとしていないのではないか」という不信感を持ったことがその理由です。そして私はまもなく民社党という政党を選択することになります。

 ところで私の高校には朝鮮の群山で生まれ、昭和40年代としては極めて珍しい、独学で韓国語を勉強していた先生がおり、授業で韓国の話を色々としてくれました。私もそれを聞いていて何となく興味を持つようになりました。

 私が韓国語を学び始めたのは大学2年の昭和51年(1976)からです。それから2年間履修した割にあまり能力は向上しませんでしたが、3年生で書き上げることになっていた卒論のテーマを「朴正煕を通して見る韓国政治文化論」としたため、とりあえず手当たり次第に色々なものを読まざるを得なくなり、読むことはある程度できるようになりました。

 この卒論を作成する中で、満州国軍官学校予科から陸士本科に進んだ朴正煕の同期生(日本人)にインタビューすることができました。朴正煕について「本当に無口な男だったが、朝鮮出身の同期生から聞いた話では、朝鮮出身の生徒だけの集まりでは人が変わったように『朝鮮は力を付けて独立しなければならない』と熱弁を振るっていたそうだ」との話を聞きました。

 大学4年の秋、昭和53年(1978)9月から12月まで、私は韓国の延世大学韓国語学堂で韓国語を学びました。同じ学校の3級上にいたのが当時共同通信にいた黒田勝弘さんや今同じ拓殖大学にいる武貞秀士さんらでした。まだ韓国語を学ぶ人は少なく、マスコミもこのころからやっと韓国語のできる記者を育成し始めたという時期でした。逆に、数が少なかっただけにやってきた人たちは問題意識も高く、多士済々でした。

 この当時の韓国は経済的には中進国のリーダー的存在で、国民も自信を持ち始めていました。同世代の大学生も真面目な顔をして「あと5年で日本に追いつく」と言っていました。それでも学生からすると朴正煕は人気がなく、私が韓国で朴正煕のことを「偉大な人だと思う」と言うと「変な人だな」とか言われました。

 私が大学を卒業した昭和54年(1979)10月26日、朴正煕は中央情報部長金載圭に暗殺されました。その翌日だったか、行きつけの赤坂にある韓国料理店「武橋洞」に行ってママさんに「大変なことになりましたね」と言ったら何も答えずに沈痛な顔をしていたことを覚えています。ついでに言えば確かその日は珍しく真露(まだシンナーの瓶のようなボトルに入っていた当時)を1瓶空けて帰りがけ自転車で壁に激突したような記憶があります。

 大学生のころ、私は朴正煕に引退した後会えるような気がしていました。それはかないませんでしたが、結局今コリアで飯を食っているのはやはり朴正煕との因縁だと思っています。

 私は彼を美化するつもりはありません。逆に私にとって彼の最大の魅力はたび重なる挫折、紆余曲折を経た人生です。陸軍将校として敗戦を迎え、韓国軍に入るも粛軍によって一時は死刑になりかけます。朝鮮戦争で軍に復帰したものの、国は3年間の戦火でさらにボロボロの状態でした。クーデターをやって権力を握ったときには「火事と泥棒にあった家を引き受けたような感覚」だったとどこかで書いていたように記憶しています。その後も民政移管、日韓国交正常化、維新体制、夫人の暗殺、そして最後は自分も暗殺されるという激動の中でその生涯を終えました。

 私の海外事情研究所の前任者である田中明先生の言葉を借りれば朴正煕は「韓国と闘って戦死した」ということになります。生前朴正煕は大邱師範時代の恩師岸米作氏を官邸に招いています。恩師を玄関まで送った朴正煕は語ります。自分がここに乗り込んで権力を取り、今ここにいることに運命の不可思議を感じ、だからこそ自分がいつか殺されるかもしれないと覚悟をしていると。朴正煕が、彼が掲げた韓国の「中興」を実現できたのはその覚悟があったからでしょう。

 朴正煕がその生涯を終えたのは61歳のときです。今の私もその歳になりました。その覚悟はあるのかと、朴正煕を思い浮かべながら常に自問しています。

|

« 「しおかぜ」メッセージ収録のお知らせ 【調査会NEWS2733】(30.5.18) | トップページ | 絶望的観測 【調査会NEWS27334】(30.5.18) »