浜坂事件とその後 (日本における外事事件の歴史12)【調査会NEWS3497】(R3.9.7)
特定失踪者問題調査会特別調査班
今回ご紹介する事件は、昭和34(1959)年7月から翌35(1960)年9月にかけて日本に潜伏して工作活動を行っていた北朝鮮工作員が、協力者とともに兵庫県美方郡の浜坂港から脱出しようとしたものの迎えの船と接触できず、予備地の兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)に行っても接触できなかったことから潜伏先である東京に戻ろうとして検挙された「浜坂事件」と呼ばれるものですが、それから6年後に神奈川県で起きる事件も本件との関連性も疑われる点があることから「浜坂事件とその後」と題して書きたいと思います。
◆浜坂事件の概要
金俊英(当時44歳)は昭和11(1936)年に渡日し、旧制の明治大学専門部で政治経済を学び、敗戦前の昭和17(1942)年に朝鮮に帰った人物です。昭和34(1959)年7月、北朝鮮工作機関の工作員として抜擢され、日本国内で北朝鮮工作員の有力拠点を作り、合わせて日本での韓国系首脳部の動向や北朝鮮送還問題の情報収集などの任務を帯びて偽造外国人登録証明書、乱数表、工作資金3000米ドルと日本円で20万円等を携行し7月29日の夜、北朝鮮の小型船を使って兵庫県美方郡浜坂町(現新温泉町)の浜坂港から密入国しました。
金は当時、民族統一委員会外事部に所属、また経済局管理部長の要職にもあったとされ、工作員として徴用されて1カ月も経ないで日本に投入されたということは工作員としての素地は既に形成されていたと思われます。密入国後は上京して杉並区馬橋に拠点を設け、経緯は不明ですがS金物会社の専務・“川上崇弘”として活動し、朝鮮総連の東京中央区委員長も務める貿易商(飲食業とも報道あり)呉相殷(当時51歳)による毎月20万円の工作資金の提供を受けながら活動し、密出国が失敗して検挙されるまでの1年2カ月間は、収集した情報の報告は全て香港経由の航空便で平壌へ送っていました。
金は都内に居住する呉のほかにもう1名在日朝鮮人を工作員として獲得し、「工作対象人物の調査や暗号通信・受信の要領、北朝鮮への報告連絡方法等のスパイ訓練を行った」とされていますが、当時の報道では金と呉以外に検挙された人物はなく、獲得された人物が誰だったかは不明です。金と呉が検挙されてから6年後の昭和41(1966)年5月、神奈川県藤沢市内で起きたひき逃げ死亡事件の被害者が金の協力者だったことが報じられますが、この件については後述します。
恵谷治氏の著書『対日謀略白書』に書かれた説明では、金俊英は昭和34(1958)年7月末に密入国後、昭和35(1960)年9月末に検挙されるまでの間、北朝鮮本国から3回にわたって帰還命令が出されたということですが「所定期間内に工作が進まなかったため、帰国を延期した」旨の記述があり、結局4回目の帰還命令に従って帰国しようとして脱出に失敗し検挙されるわけですが、当時の一部報道では、金について「愛人が15人・・・」との記事もあり、これが事実なら帰還命令を3回も延期した理由が工作活動が進まなかったためか、日本に未練があったのか、疑問が残るところです。昭和30年代半ばの20万円というのはサラリーマンの月給の10か月分にあたります。それを毎月もらっていたのですから帰りたくなくなたのかも知れません。
検挙後の調べでは、金が日本で活動中に特に親しく接触した日本人は約60人にも上がり、日本語が上手いことから、朝鮮人だとは気づかれなかったようですし、愛人のことも含めまさに「口八丁手八丁」の工作員だったということになります。
一方、金の協力者・呉相殷については、外事事件として昭和25(1950)年に摘発された「第1次朝鮮スパイ事件」や昭和28(1953)年摘発の「第2次朝鮮スパイ事件」の際にも捜査線上に上がっていたとされる人物です。この「浜坂事件」を報道する記事には検挙の経緯について詳しく記述されたものが見当たりません。警察当局は当時から呉をマークしていく中で金の存在が浮かび上がり、その動向を密かに監視していたものではないかと推測されますが、今一つ、検挙に至った経緯ははっきりしていません。
さて、検挙時の金と呉の行動について日本法令出版の『戦後の外事事件』内では「兵庫県警察は、昭和35年9月29日、密出国に失敗して東京のアジトに戻ろうとしていた両人を浜坂港で逮捕した」と記述されていますが、昭和38(1963)年1月22日の大阪高裁における判決文の中で明らかにされた2名の行動は昭和35(1960)年9月25日夜、金俊英に同行して東京駅を発ち、翌26日に北朝鮮本国から指令を受けていた密出国予定地である兵庫県美方郡浜坂町に到着します。
浜坂町に入った2人ですが、金俊英は北朝鮮本国から迎えに来る船の乗員と接触するため浜坂小学校前に出かけ、呉は東京出発時に手荷物として浜坂駅に送っていた(当時は手荷物を駅留めで送ることができました)ミシンなどを受け取りに行き、旅館で金を待ちました。しかし、金は何らかの手違いからか、浜坂小学校前で迎えの船の乗員と接触することができませんでした。
翌27日、金と呉の2人は、事前に予備の乗船地として本国から指定されていた城崎町の日和山海岸に向かい、ミシンなどの荷物は今度は浜崎駅から城崎駅に転送しました。日和山海岸では迎えの船の乗員と接触する場所として、近くの共同墓地を指定されていたため、昼間に2人で共同墓地の下見をします。
夜になって金が迎えの船の乗員と接触するため共同墓地に向かったため、呉はこの間に城崎駅に行って転送しておいたミシンなどの荷物が駅についているかを確認に行き、宿で金の帰りを待ったということですが、金はここでも迎えの船の乗員と接触することができず、2人はやむなく東京に戻ろうとしていたところで兵庫県警の警察官によって職務質問の上、逮捕されました。
『戦後の外事事件』では「兵庫県警察は、昭和35年9月29日、密出国に失敗して東京のアジトに戻ろうとしていた両人を浜坂港で逮捕した。」と説明されており、ひょっとしたら金と呉は迎えの船の乗員との接触を図るため、再び美方郡浜坂町に戻ってきたのかもしれません。
逮捕時、呉は携行していたカバンの中にアルファベットとアラビア数字を組み合わせた大学ノート数枚に書き込んだ暗号文を持っており、別に押収した乱数表との照合から暗号が解読されました。それによると暗号文は北鮮からの指令で、一例として金の帰国命令は「日時、9月26日午後9時から同10時まで。場所、兵庫県美方郡浜坂町浜坂小学校正門真向い柱の前。タバコをくわえて立っていること。『マッチを貸してください』という男が寄ってきたら、タバコを1本取り出して相手に渡す。相手が『私は290号』と答えたらその男の指示に従うよう」というものでした。
金と呉は逮捕から約3週間後の10月20日、「入国管理令違反」の容疑で起訴され、『戦後の外事事件』では昭和38(1963)年1月22日、大阪高等裁判所において、出入国管理令、関税法違反で、金俊英は懲役1年、呉は懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決を受けました。『対日謀略白書』では「金俊英は64(昭和39)年に北朝鮮に帰国した」と記述があり、金は懲役後に帰国したと思われます。
◆6年後の事件
◇埋設された無線機
工作員・金俊英が検挙されてから6年後の昭和41(1966)年5月22日、神奈川県茅ケ崎市に所在した「パシフィックホテル茅ヶ崎」の駐車場わきの道路拡張工事現場の地中から金属製の箱に収められた無線機が掘り起こされるという事案が起こりました。その後無線機は警察に渡され調べた結果、これまでにない高性能なもので、その構造から警察では「ソ連型の無線機」と結論付けされました。
「ソ連型の無線機」といってもソ連(当時)のスパイが使うためなのか、北朝鮮の工作員が使うために埋められていたのかは、結局わからずじまいとなりましたが、パシフィックホテル茅ヶ崎の開業時期などから検証した結果、無線機が埋設された時期は発見時から遡って過去2年以内であること。しかも、鉄の格納箱の表面のさび具合が比較的新しい点などからみると、せいぜい1年以内のことではないかとの判断となったようですが、警察が当時の宿泊者名簿などを調べても無線機を埋設したような容疑者を発見できませんでした。
◇ひき逃げされた協力者?
しかし、神奈川県警にはもう一つ、高い関心を呼んだ事件がありました。それは無線機が掘り起こされた5月22日の2日前の5月20日未明、茅ヶ崎市の隣、雨が降っていた藤沢市内で金泰明という医師が湘南遊歩道路上を散歩中に25歳の大工が運転するトラックにひき逃げされ死亡するという事件が起きていたことです。
何故神奈川県警がこのひき逃げ事件に高い関心を持ったかというと、被害者の金医師は過去、浜坂事件の首謀者である工作員・金俊英に北朝鮮に住む父親の写真を見せられて工作活動への協力を強要されたことのある人物だったからです。
この関係から神奈川県警は掘り起こされた無線機とひき逃げされて死亡した金医師との関連性を疑ったわけですが、ひき逃げ犯として逮捕されたのは25歳の大工で飲酒運転による事故の様相が強く、結局金医師と無線機を関連付けるものは出ませんでした。しかし、医師が偶然にひき逃げ事件に遭遇したとしても何故、雨が降る夜に、しかも夜に散歩に出ていたのか、不可解な点も残っています。
ちなみに医師のひき逃げ事件の報道では「20日午前4時45分ごろ、奥さんが前夜から帰ってこない夫を捜していたところ、自宅近くの県道に倒れており、病院に収容したが間もなく死亡した」との記述があり、この点でも医師が日常と違う行動をしていて事故に遭った可能性もあり、未だに謎の多い事件と言えます。
当初、浜坂事件に関する報道記事を目にした際は「密出国に失敗した工作員2名が逮捕された記事」とだけ思ってみていましたが、調べていくうちに数年後に浮かび上がる「埋設された無線機」や「ひき逃げ事件」といった新たな疑問点が増えるにつれ、まだまだ私たちが知りえない世界がこの日本にはあるということに改めて気づかされた次第です。
※パシフィックホテル茅ヶ崎の駐車場脇で発見された無線機については本年3月9日に現場でのライブを行っています。
また、【調査会NEWS3410】(R03.3.10)にも書かれています。
http://araki.way-nifty.com/araki/2021/03/post-a4860e.html
◆◆◆参考資料◆◆◆
1、浜坂事件に関する報道記事
■1960.9.30 読売新聞「北朝鮮スパイ団?の幹部-密出国はかった2人を逮捕」【神戸発】
兵庫県警本部外事課は東京都千代田区有楽町2-13、貿易商・呉相殷(51)、同杉並区馬橋4-413島津金物会社専務・川上崇弘こと金俊英(44)を出入国管理令違反の疑いで30日朝までに捕らえ、北鮮スパイ機関の在日リーダー格とみて係員9人を29日夜の「銀河」で上京させ30日朝、呉の愛人が経営している有楽町の朝鮮料理店と2人の自宅を捜索した。
2人は「26日兵庫県美方郡浜坂町海岸から韓国へ密出国を図ったが約束の船が見つからず東京へ帰るつもりだった」といっているが、呉は第1,第2次北鮮スパイ事件当時にも捜査線上にあがっていたもので、月数十万円にのぼる出所不明の預金をしていたこともわかっており、逮捕当時持っていた革鞄には小切手帳と、アルファベットとアラビア数字を組み合わせた大学ノート数枚に書き込んだ暗号文を持っていた。
同本部でその一部を解読したが、1,2次スパイ事件に比べ、日本での実際の活動は少ないが組織内での地位は数等上の者であり、金はさらにその上層部員として対日スパイ活動の中枢部を占めている模様で、また2人の逮捕と同時に押収した荷物からライカ、キャノン、オールウエーブラジオなどのほか新しい文房具など約50万円の品物が発見され、対日工作資金の見返りにこうした品物を要求している北鮮地域に送ろうとしたものとみられている。
■1960.10.21 産経新聞「北朝鮮スパイ-暗号解読に成功-活動の全容わかる」【神戸】
兵庫県警外事課では、さる9月28日出入国管理令違反の疑いで逮捕した北朝鮮のスパイ、東京都杉並区馬橋3-413、金俊英(44)=本籍、朝鮮黄海南道載寧郡〇〇〇24=と、東京都中央区西八丁堀3-2,飲食業・呉相殷(51)=本籍、朝鮮咸鏡北道吉州郡徳山面上下洞1054=の2人を調べていたが、このほど押収した乱数表による暗号文の解読に成功、スパイ団の全貌が明らかになった。
乱数表の暗号文の解読に成功したのは初めてであり、同県警ではこの解読により金らとは別グループの北鮮スパイ団が日本に相当数いることを確信、警察庁にも連絡、捜査に乗り出した。
この暗号文(26枚押収)は5桁の乱数で書かれており、この乱数に特定の数を加えたり、引いたりして、解読する仕組みになっているが、同県警が金の住所から押収した縦3センチ、横3.5センチの解読のカギを示す紙片から全部の暗号文を解読できたもの。
内容は北鮮からの指令で、一例として金の帰国命令は
「日時、9月26日午後9時から同10時まで。
場所、兵庫県美方郡浜坂町浜坂送学校正門真向い柱の前。
タバコをくわえて立っていること。
『マッチを貸してください』という男が寄ってきたら、タバコを1本取り出して相手に渡す。相手が『私は290号』と答え、その男の指示に従うよう」というもの。
この暗号指令は毎月8日、28日の両日、夜の平壌放送の直後5分間だけ定期的に短波で流れていた。
同県警の調べでは、金は北鮮の民族統一委員会外事部に所属、また経済局管理部長の要職にあり、昨年9月29日夜、北鮮の小型船で3000ドルと20万円を持って兵庫県の浜坂港に密入国した。
目的は日本国内に北鮮スパイの有力拠点を作るのがおもなもので、合わせて日本での南鮮系の首脳部の動向や北朝鮮送還問題などの情報収集とみられ、報告はすべて香港経由の航空便で平壌へ送っていた。
呉は朝鮮総連東京中央区委員長をしており、金の有力協力者で、金が密入国以来毎月20万円を資金として出していた。
金は約1年2カ月の間に、特に親しくした日本人は約60人にのぼっているが、いずれも朝鮮人とは気づかないほど日本語が上手く、東京新宿のⅯデパートの女店員ら15人の愛人を持っていた。
なお神戸地検では金と呉を20日、出入国管理令違反で起訴した。
2、浜坂事件に関する書籍資料
■戦後の外事事件 浜坂事件 1960(昭和35)年9月29(6)日 兵庫県警察検挙
この事件は、兵庫県浜坂港から密入国した北朝鮮工作員・河上崇弘こと金俊英 (当時44歳)が工作員の獲得工作を行った後、北朝鮮から帰国命令を受けて密出国しようとしたスパイ事件である。
金俊英は、昭和11年渡日し、明治大学専門部政経科を卒業後の昭和17年に北朝鮮に帰国した。
その後昭和34年7月、北朝鮮工作員として採用され、在日スパイ網埋設のための在日朝鮮人の獲得工作などの任務を指示され、昭和34年7月29日、偽造外国人登録証明書、乱数表、工作資金等を携行して兵庫県浜坂港から密入国した。
その後、東京都内に居住している在日朝鮮人Aら2人を工作員として獲得し、工作対象人物の調査、暗号通信受信要領、北朝鮮への報告連絡方法等のスパイ訓練を行った。
その後、北朝鮮からの帰国指令を受けた金俊英は、Aとともに、昭和35年9月26日、暗号文書を所持し、兵庫県浜坂町付近の海岸から密出国しようとしたが、連絡の手違いから北朝鮮工作船との接触に失敗した。
兵庫県警察は、昭和35年9月29日、密出国に失敗して東京のアジトに戻ろうとしていた両人を浜坂港で逮捕した。
昭和38年1月22日、大阪高等裁判所において、出入国管理令、関税法違反で、金俊英は懲役1年、Aは懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決を受けた。
■恵谷治著『北朝鮮 対日謀略白書』=北朝鮮スパイ事件の全資料~事例8 浜坂事件
1960(昭和35)年9月29日
金俊英(日本名は河上崇弘、当時44歳)は戦前に渡日し、明治大学卒業後に帰国し、1959年7月に工作員に徴用された。
59年7月29日に暗号表、工作資金、偽造外国人登録証などを携行して兵庫県浜坂港から密入国し、東京で在日朝鮮人2人を工作員として獲得して、スパイ訓練を施した。
金俊英は所定期間内に工作が進まなかったため、3回にわたって帰国を延期したが、4回目の帰還命令によって獲得工作員とともに密出国するため、60年9月26日、浜坂町の海岸で工作船を待った。
しかし工作船との接線に失敗し、東京に戻ろうとしていた2人を、兵庫県警が職務質問して逮捕した。
金俊英が所持していた暗号表は縦3.8センチ、横2.7センチの小さな紙に約1000字の数字が印刷されてあり、拡大鏡で読み取らねばならなかった。
金俊英は出入国管理令違反、関税法違反で懲役1年の判決を受けた。(大阪高裁、63年1月22日)
金俊英は64年に北朝鮮に帰国した。
3、浜坂事件における裁判判決文
■大阪高等裁判所 昭和37年(う)488号 判決
控訴人 原審検察官
被告人 呉相殷 外一名
弁護人 安井栄三 外二名
検察官 山根正
主文
原判決を破棄する。
被告人金俊英を懲役一年に、被告人呉相殷を懲役六月にそれぞれ処する。
被告人金俊英に対し、原審における未決勾留日数中四〇日をその刑に算入する。
被告人呉相殷に対し、本裁判確定の日から二年間、その刑の執行を猶予する。
押収物件中、原判決書添付の目録記載の物件を被告人両名から没収する。
理由
本件各控訴の趣意は、検察官岡谷良文作成の控訴趣意書及び被告人金俊英の弁護人安井栄三、同横田静造、同西川金矢連名作成の控訴趣意書の各記載のとおりであり、検察官の控訴趣意に対する答弁は、被告人呉相殷の弁護人安井栄三、同横田静造、同西川金矢連名作成の答弁書及び補充答弁書の各記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。
(中略)
第二、検察官の控訴趣意に対する判断(被告人呉相殷関係)
一、関税法違反の罪に関する主張について
論旨は、原判決は、被告人呉相殷に対する密輸出予備の共同正犯の公訴事実、すなわち、「同被告人は、被告人金俊英と共謀のうえ、所轄神戸税関の許可を受けないで兵庫県美方郡浜坂町及び同県城崎郡城崎町付近から船舶により朝鮮に向けて貨物を密輸出しようと企て、昭和三五年九月末頃東京都より右浜坂町及び城崎町まで、その頃購入し又は所持していたミシン一台等の貨物合計二五五点を鉄道便により又は携帯して運搬し、かつその間右貨物を船舶に積み込むため連絡手配する等密輸出の予備をした。」との事実につき、被告人呉相殷が自ら密輸出を企図したとの証拠は不十分で密輸出予備の共同正犯ではなく、単に被告人金俊英の密輸出予備の犯行を幇助したのに過ぎず、しかも密輸出予備の幇助については刑法六二条の適用はなく他にこれを処罰する規定はないからとの理由で、被告人呉相殷に対し無罪の言渡をした。
しかし、同被告人については右密輸出予備の共同正犯の事実は証拠によってこれを認め得るから、この点において原判決の事実認定には誤りがある。
仮にそうでないとしても、原判決が密輸出予備の幇助について刑法六二条の適用を否定したのは同条の解釈を誤ったものであり、この点において原判決には法令の解釈適用を誤った違法がある、というのである。
よって案ずるに、原判決が被告人呉相殷に対し右公訴事実につき、所論の如き理由で、無罪の言渡をしたことは記録上明らかである。
そこで、原審において適法に取り調べられた同被告人関係の証拠によって事実関係の確定を試みるのに、これらの証拠によると、同被告人は、被告人金俊英が原判示第二のとおり貨物の密輸出の予備をした際、右密輸出の情を知りながら、
(1) 昭和35年9月20日頃から同月23日頃までの間、右被告人金俊英に対し、密輸出用貨物の購入資金や乗船予定地へ赴く旅費その他の経費に当てさせる趣旨で15万円を貸与したほか、原判示シンガーミシン、ミシン用針、ライカ、カメラの購入の世話をしてやりその代金を立替え支払つてやったこと、
(2) 同月25日夜同被告人に同行して東京駅を発ち翌26日かねて北鮮からの指令により乗船予定地に指定されていた浜坂町に至つたのであるが、その間同被告人とともに本件密輸出用貨物の一部を携帯運搬し、又同町において同被告人が北鮮からの迎え船の乗員と連絡をとるため浜坂小学校付近に行っている間に、自ら国鉄浜坂駅に赴き、さきに手荷物として東京から同駅へ送付しておいた前記ミシン等の貨物を受取り旅宿に運び込んで同被告人からの連絡を待ったこと、
(3) 浜坂町からの密輸出に失敗したため、翌27日、同被告人とともに予備乗船地である城崎町日和山海岸に赴き、同日昼相共に迎え船の乗員との連絡指定地である同所共同墓地に行って下検分をし、又同夜同被告人が右乗員との連絡のため右墓地に行っている間に、自ら国鉄城崎駅に赴き、さきに浜坂駅から転送しておいた前記貨物の到着していることを確認したうえ、旅宿において同被告人からの連絡を待っていたことが認められる。
従って、被告人呉相殷が、被告人金俊英の企図した本件貨物密輸出の、準備行為をしたことは明らかである。
そこで次に、被告人呉相殷の右準備行為が、原判決が判断したように単に被告人金俊英の密輸出予備の幇助行為に過ぎないか、或いは検察官の主張するように同被告人との共同による密輸出の予備行為であるかどうかを検討する。
一般に、共同正犯とは、数人が特定の犯罪を行うために共同意思のもとに一体となって自己の犯罪意思を実現するものをいう。
そして、たとえ自らその実行行為を分担しなくとも、いやしくも他人の実行行為を利用して自己の犯罪意思の実現を図る以上、それは共同正犯(共謀共同正犯)であるとともに、自ら実行行為を分担実行するかぎり、それはもはや他人の犯罪への加功ではなくて、常に自己の犯罪を実行したものとして共同正犯(実行正犯)となるものと解される。
これに反し、従犯とは自己の犯罪意思の実現を目的とするものではなく、単に他人の犯罪に加功し実行行為以外の行為をもつてこれを幇助するに過ぎないものと解される。
従って、共同正犯と従犯とを区別するについては、一般に、犯人が自ら実行行為をしたかどうかがその区別の基準の一つとなることは明らかである。
しかしながら、この基準(実行行為分担の有無)による区別は、基本的構成要件の実行に着手した後の犯罪(既遂又は未遂)には疑いもなくあてはまるが、右着手前の準備行為を捉えて一個の犯罪類型としたいわゆる予備罪にまでこれを適用することは妥当ではない。
もとより、予備罪もそれ自体一個の構成要件であるから、これについても固有の実行行為を観念することができる。
しかし、それは、基本的構成要件の如くそれ自体の実現を目的とするものではなく、あくまでも、基本的構成要件の実現を目的としてなされた、基本的構成要件における実行に着手する前の、準備行為に過ぎない。
従って、このような準備行為自体を採って己の犯罪の実行(共同正犯)と他人の犯罪への加功(従犯)とを区別する基準とすることはできない。
すなわち、予備罪において共同正犯と従犯との区別の基準となる「実行行為」とは、予備罪自体の構成要件上の行為ではなくて、その基本的構成要件上の行為である。
予備罪の共同正犯とは、基本的構成要件の共同正犯たるべき者がたまたま実行の着手前に犯罪が発覚した等の理由により予備の段階にとどまったものに過ぎず、予備罪の従犯もまた同様に基本的構成要件についての従犯たるべき者がその正犯がたまたま予備にとどまったため自らも予備罪の従犯とされるに過ぎないのである。
これは、予備罪が単に基本的構成要件の修正形式に過ぎないことから考えても当然のことであるのみならず、もしこのように解さないと、正犯が実行に着手すればその従犯となるに過ぎない者が、たまたま正犯が予備にとどまったため自己もまた(予備罪の)正犯となるということになり、それ自体甚だしく奇異な結果となるばかりではなく、本件密輸出に関する罪の如くその基本的構成要件にあたる罪の刑と予備罪の刑とが全く同一であるときには、従犯減軽の適用上不当な結果を招来することとなるからである。
これを本件についてみると、被告人呉相殷の前認定の各行為のうち、少なくとも前記(2) の本件密輸出貨物の一部を自ら東京から浜坂町へ携帯運搬し、さらに国鉄浜坂駅からさきに手荷物として同駅に送付しておいた貨物を受取り旅宿に運び込んで待機した行為、(3) の国鉄城崎駅で転送貨物の到着を確認したうえ待機していた行為が本件密輸出予備罪の構成要件上の行為に当たるものと考えられるが、右の理により、その故をもつて直ちに同被告人を本件密輸出予備の共同正犯とすることはできない。
従って、予備罪については結局犯人の意思によって共同正犯と従犯とを区別するのほかはないこととなるが、さきに述べた共同正犯と従犯との区別に関する一般的基準のうち実行正犯についてのものを予備罪に適用すると、犯人が自ら基本的構成要件上の行為を分担実行する意思をもつてその予備行為をした以上、その者は予備罪の共同正犯となるが、自ら基本的構成要件上の行為を実行する意思はなく単に他人の行為を幇助する意思でその予備行為をした者は予備罪の従犯となると解するのほかはない。
そこで本件についてこれをみるのに、被告人呉相殷は、さきに認定したように、被告人金俊英が本件密輸出を企図した際その情を知りながらその密輸出用貨物の購入、輸送等に協力したのみならず、自ら船積み予定地である浜坂町、城崎町に至り、鉄道手荷物便で送付した右貨物を駅で受取り旅宿に運び込み又は駅で貨物の到着を確認するなどして、北鮮からの迎え船の乗員との連絡のため指定地へ赴いた同被告人からの連絡を待っていたこと、及び原審において適法に取調べた証拠によって認め得る、本件貨物が手荷物便で送った物五包(梱包四個及びボール箱入り一個)のほか被告人両名の携行した物もあり、その重量及び容量からみて被告人金俊英が一人でそのすべてを旅宿又は駅から乗船地へ運びかつ短かい積込み予定時間内にその船積みを完了することは甚だ困難である事実に照らすと、被告人呉相殷は、被告人金俊英からの連絡のあり次第直ちに本件貨物を乗船場に運び同被告人とともに迎え船に積込む作業に当たる意思であつたと推認するのほかはない。
そうだとすると、右貨物の船積み行為及びこれに接着する乗船場への運搬行為が基本的構成要件たる貨物密輸出罪の実行行為(これに密着する行為を含む)に当るものと解すべきであるから、被告人呉相殷は自ら右実行行為を分担実行する意思でその予備行為をしたことが明らかであり、同被告人については密輸出予備の共同正犯が成立するものというべきである。
従って、同被告人につき密輸出予備の共同正犯の成立を否定して無罪の言渡をした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるから、原判決中この点に関する部分は、その余の所論(密輸出予備の幇助につき刑法六二条の適用がある旨の主張)について判断するまでもなく、破棄を免れない。
(被告人呉相殷につき右の如く密輸出予備の共同正犯を認定すべき以上、被告人金俊英に対しても同罪の共同正犯を認めざるを得ず、従って同被告人に対して同罪の単独犯を認定した原判決にはこの点において同被告人関係についても事実の誤認があるといわざるを得ないが、この誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるとはいえない。)
二、出入国管理令違反幇助に関する主張について
論旨は、原判決は、被告人呉相殷に対する密出国企図(予備)の幇助の公訴事実、すなわち、「同被告人は、被告人金俊英が原判示第一の(一)の密出国を企てた際、その情を知りながら、昭和三五年九月頃同人に東京都より出航地までの旅費等の資金を提供するとともに、同月二六日頃同人に随伴して東京都より浜坂町及び城崎町付近に至り、旅館その他に対する交渉連絡に当る等同人の右密出国の企てに便宜を与え、その犯行を容易ならしめて幇助した。」との事実につき、右密出国予備の幇助を罰する旨の特別の規定はなく、又従犯に関する一般規定である刑法六二条は予備の幇助に適用がないからとの理由で、被告人呉相殷に対して無罪の言渡をした、しかし、右刑法六二条は予備の幇助についてでも適用があるのであって、この点において原判決には法令の解釈適用を誤った違法がある、というのである。
よって案ずるに、原判決が被告人呉相殷に対し右公訴事実につき、所論の如き理由で、無罪の言渡をしたことは記録上明らかであり、又本件密出国予備につきその幇助を罰する旨の特別の規定のないことも疑問の余地がない。
そこで、密出国予備の幇助につき刑法六二条の適用があるかどうかを審究するのに、予備罪についても共同正犯ないし正犯と従犯との区別が考えられることはさきに説示したところにより明らかであるから、その従犯の行為(幇助)も、刑法六四条の如き除外規定にあたらない以上、同法六二条、六三条により処罰の対象となるものと解すべきはむしろ当然である。
そして、この見解は、予備罪である通貨偽造準備罪(刑法一五三条)の幇助を認めこれに対して右六二条、六三条を適用した大審院判例(昭和四年二月一九日宣告、同院刑事判例集八巻八四頁)の趣旨にもそうものである。
従って、刑法六四条の除外規定の適用のないことの明らかな本件密出国予備の幇助をした者も同法六二条にいわゆる従犯として同法六三条により法律上の減軽のされた刑の範囲内で処罰を免れないのであつて、これと反対の見解を採り密出国予備の幇助につき同法六二条の適用のないことを理由に被告人呉相殷に対して無罪の言渡をした原判決には所論の如き法令の解釈適用上の誤りがあり、かつその誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決中この点に関する部分も破棄を免れない。
(結局、当裁判所は、検察官の論旨とその結論を同じくするものではあるが、しかし密出国予備罪が殺人予備罪等の如き基本的構成要件の拡張ないし修正形式としての予備罪とは類型を異にするものであることを前提として、その可罰性を主張する所論は採用しない。)
弁護人は、
(1)刑法六二条にいわゆる「正犯」とは刑罰法規各本条の実行行為すなわち基本的構成要件に該当する行為を行う者に限る。このことは、同法六〇条が二人以上共同して「犯罪を実行」した者は皆「正犯」とするとの表現を用いていること等に照らして明白である。従って実行に着手する前の行為である予備行為をしたに過ぎない者は「正犯」ではなく、従ってこれを幇助したとしても刑法六二条を適用する余地はない。
(2)仮に予備罪についても「実行行為」の観念を容れることができるとしても、なお予備の幇助には刑法六二条の適用がない。すなわち、元来、予備は一般に基本的構成要件上の結果を発生させる蓋然性は極めて少なく、法益侵害の危険性も軽微であるから、通常可罰性がなく、ただ法益が国家的、社会的に極めて高い特殊の犯罪に限って法は特に例外的に予備を罰することとしたのである。他方、従犯も、これに対する刑が正犯の刑に照らして減軽されるべきものとされていること(刑法六三条)によって明らかなように、従犯の違法性、可罰性が正犯のそれに比して本質的に低いものであることは否定できない。従って本来既遂又は未遂に比しその危険性、可罰性の軽微な予備罪について、さらにその従犯をまで処罰するためには、特にその旨の明文の規定を必要とするのである。
又予備は実行行為に着手する前の準備行為のすべてを総称するものであつて、基本的構成要件上の行為が定型的であるのと異なり、無定型、無限定であり、その態様も雑多であるから、予備を罰する場合にはその処罰の範囲が著しく拡大され、社会的には殆んど無視しても差支えのない行為までが処罰の対象とされる危険がある。
そこで、法は、或る種の予備罪(例、刑法一五三条、爆発物取締罰則三条)については特に当該予備罪を構成する行為の範囲を限定列挙しているほどである。
他方、従犯の行為もまた無定型、無限定である。
従って、もし予備の従犯が一般に処罰されることとなると、処罰の対象は著しく拡大され、なんらの可罰性もない社会的に無視して差支えのない行為までが処罰の対象とされる危険は一層大となる。この見地からも予備罪の従犯の処罰については特に明文の規定が必要であると解すべきである。
刑法七九条が特に内乱罪の予備の幇助を罰する旨を規定し、又爆発物取締罰則五条、破壊活動防止法三八条ないし四〇条がそれぞれ幇助行為の種類を限定したうえで当該予備の幇助を罰する旨を規定しているのはこの理によるのである。
というのである。
しかしながら、
(1)法がある基本的構成要件の準備行為を予備として処罰の対象とする場合(予備罪)には、それ自体一個の構成要件であるから、これについても固有の実行行為を観念することができることはさきに述べたとおりである。
もっとも、この意味における予備の実行行為が予備の共同正犯ないし正犯とその従犯とを区別する基準とならないこと、すなわち、その正犯と従犯との区別の基準は自ら予備の実行行為をしたかどうかにあるのではなく、むしろ犯人の主観、すなわち基本的構成要件上の実行行為をする意思があつたかどうかにあることも前説示のとおりである。
従って、予備罪に対して、犯罪を実行した者を正犯とする旨の刑法六〇条を適用する場合には、その性質上、或る程度の解釈上の修正を必要とすることは明らかである(しかし、それは刑法六〇条を拡張解釈するものではなく、むしろ予備罪の実行行為をした者でもその正犯とならないものがあるというふうに制限的に解釈するのである)。
しかしながら、予備罪についてその正犯の観念が認められる以上、正犯を幇助した者を従犯とする旨の刑法六二条の予備罪への適用を否定することはできない。
(2)予備が基本的構成要件上の行為に比し危険性、違法性ないし可罰性が軽微であることは弁護人の所論のとおりである。
しかしながら、なお、予備といえども、その危険性、違法性を道義的に無視できないときとか或いは行政取締上の必要がある場合などには、特に法はこれを処罰の対象としているのである。
他方、従犯が正犯に比しその違法性、可罰性の低いことも弁護人所論のとおりであり、それ故にこそ刑法六三条は従犯の刑を正犯の刑に照らして減軽すべきこととしたのである。
しかしながら、それだからといつて、予備罪の従犯に可罰性なしとは直ちにいうことはできないし、予備罪の従犯を処罰するためには特に(予備を罰する旨の規定及び従犯処罰に関する刑法六二条六三条のほかに)その旨の規定を必要とするということはできない。
その可罰性の逓減に応じてその刑も逓減されるだけである(例えば殺人罪の法定刑と殺人予備罪の法定刑ならびに殺人予備幇助の処断刑を比較せよ)。
又予備及び従犯の行為が基本的構成要件上の行為ほどには定型的でないことは明らかだが、しかしなお所論のように無定型、無限定であると断ずることはできない。そこにはおのずから社会通念上の限定があり、解釈上も基本的構成要件との関連において一応の定型が考慮されるのである。
所論刑法七九条、爆発物取締罰則五条、破壊活動防止法三八条ないし四〇条が予備又はその幇助行為を列挙し又はこれを列挙しないで当該予備の幇助を罰する旨規定しているのは、いずれも立法者が特に、その予備又は幇助行為の限定を裁判所の解釈に委ねるよりも立法的に解決するほうが適当であるとして、それらの行為を法文上列挙し、又はこれに対する刑罰についても刑法六三条、六八条による一般従犯減軽例に従うことが適当でないとしてそれぞれ固有の法定刑を規定したのに過ぎないのであって、このような立法例があるからといって、予備の幇助には従犯処罰に関する一般規定である刑法六二条の適用は全然ないと解釈することは妥当でない。
第三、結論
以上の次第であるから、原判決中、被告人金俊英に関する部分は刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により、又被告人呉相殷に関する部分は同法三九七条一項、三八二条、三八〇条により、それぞれこれを破棄し、同法四〇〇条但書により被告人両名に対して更に次のとおり判決する。
(中略)
二、被告人呉相殷について
(罪となるべき事実)
被告人呉相殷は、
(一)被告人金俊英と共謀のうえ、原判決書添付の目録記載の物件合計四八九点を所轄税関の許可を受けないで本邦から北鮮へ輸出しようと企て、昭和三五年九月二五日夜相共に右貨物の一部を携帯して東京都を発ち、翌二六日船積み予定地である兵庫県美方郡浜坂町へ、更に翌二七日同様船積み予定地である同県城崎郡城崎町へ順次携行し又その間他の貨物のうちシンガー・ミシン等はこれを東京駅より、毛糸は大阪駅よりそれぞれ国鉄手荷物便を利用して右浜坂町及び城崎町へ順次輸送し、さらにフイルム、印画紙は浜坂町に到着後これを購入したうえ、右二六日には浜坂町で、又二七日には城崎町でかねて連絡手配しておいた北鮮からの出迎えの船を待ちその船積みの機会をうかがったが、迎え船が来なかつたため、右貨物の無許可輸出の予備をしたにとどまり、
(二)被告人金俊英が原判示第一の(二)記載のとおり旅券に出国の証印を受けないで本邦より北鮮に出国することを企てた際、その情を知りながら、昭和三五年九月二三日頃、同被告人に対し、その居住地東京都より乗船予定地たる前記浜坂町までの旅費等出国のための諸経費に当てさせるため、一五万円を貸与し、又同被告人が帰鮮に際して携行する身廻品等の運搬等を手伝い、もつて同被告人の右密出国の企てに便宜を与えてこれを幇助したものである。
〈証拠説明省略〉
(法令の適用)
被告人呉相殷の右(一)の所為は刑法六〇条、関税法一一一条二項、一項に、同二の所為は刑法六二条一項、出入国管理令七一条にそれぞれ該当するから、いずれも所定刑中懲役刑を選択するところ、右(二)の点は従犯であるから刑法六三条、六八条三号により法律上の減軽をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条、一〇条により重い右(一)の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役六月に処し、かつ同法二五条一項を適用して二年間右刑の執行を猶予することとし、なお没収の点につき関税法一一八条一項を適用する。
(裁判長裁判官 松村寿伝夫 裁判官 河村澄夫 裁判官 細江秀雄)
4、パシフィックホテル茅ヶ崎駐車場脇の地中から発見された無線機に関する報道記事
■1967.1.7 読売新聞「ある伏流③ スパイ無線機発見―ソ連型、とび抜けた性能」
◆道路拡張現場から
「えっ!またあの話ですか。弱ったなあ。もっともさんざんホテルの写真までとっていただいて、うちとしては宣伝になったといえるんでしょうが・・・」
―茅ヶ崎市東海岸。
冬の思い海を見下ろして立つ『パシフィックホテル茅ヶ崎』の一室で、同ホテル施設管理課長の池田俊雄さんは、こういって肩をすくめた。
地上10階、地下1階の同ホテルは経営者の一人が元映画俳優の上原謙であることと、その特異な外容で、夏の湘南族にはよく知られている。
このホテルの駐車場わきの道路拡張工事現場から、日本で発見されたものとしては、もっとも高性能のスパイ無線機が掘り起こされたのは昨年の夏の初めだったー。
◆細長い形の鉄の箱
はじめに真相を伝えると、この無線機は警察が知るより1か月前に掘り起こされていたのである。
昨年5月22日のことだった。同ホテルでは敷地内のボーリング場建設に伴い、プール前の道路兼用駐車場の拡幅工事を進めていた。これまでの駐車場より、さらに全体を6m広げるのが工事のねらいだったが、そのためには、コンクリート部分の外にある水銀灯を動かさなければならない。この日も、電気技師のTさんら3人の作業員が、ブルドーザーを使って水銀灯の移設作業に汗を流していた。
ホテルの入り口から北側に数えてちょうど6本目の水銀灯を土台のセメントごと掘り起こした時である。何やら黒いものが砂の中から顔を出した。よく見てみると細長い一斗缶のような形の鉄の箱だ。
◆機械の部品に興味
「何だ、こりゃあ」
一人が叫んだ。
「爆弾じゃなかろうか」。
箱は10本のボルトでしっかりフタをされており、1本のスパナが添えられていた。おそるおそるフタをあけると、中には防湿用の油紙で包まれた機械の部品がぎっしり詰め込まれていた。電気関係に詳しいTさんには、これが無線機らしいことはピンときた。
Tさんはこれを家に持って帰った。自分でも興味があったし、電気関係の学校に行っている息子の教材になると考えたからだ。家で無線機のコードを電源につなぐと、すぐにショートしてしまった。
「もう、あのことは勘弁してくださいよ。決して悪気はなかったんですから」とTさんは恐縮しきって話す。「ホテルの入り口付近に転がってたんですが・・・」と、Tさんがホテル事務室に無線機を届けたのは約1ヶ月後の6月18日だった。
◆県警がぜん緊張
久しぶりの、しかもこれまでにない高性能の無線機発掘に県警外事課はがぜん緊張した。
縦22.5cm、横31.5cm、高さ44.5cmの鉄製“格納箱”の中には、無線送・受信機、自動送信機、数字用さん孔機、コンデンサー、紙テープ、予備の部品など75点が入っていた。
従来、日本で発見された無線機には「北朝鮮型」と「ソ連型」の二つのタイプがある。
「北朝鮮型」は「能代事件」(去る38年4月、無線機を持った北朝鮮工作員が秋田県能代市の浜辺に水死体となって打ち上げられた事件)や「李竜鉄事件」(39年8月、京都府に密入国、持ってきた無線機を山中に埋め、東京で活躍していた)などで発見されたもので、北朝鮮諜報機関が制作したものとみられている。
また「ソ連型」は「三橋事件」(終戦でソ連に抑留され、スパイ教育を受けて帰国した三橋正夫が24年から27年12月までに70回以上もソ連と通信した事件)や「第3次北朝鮮スパイ事件」(28年8月、北朝鮮内務省から対日工作のため派遣された韓載徳以下のスパイ団事件)などで摘発されたもので「北朝鮮型」より性能は高く、第2次世界大戦中、アメリカがソ連に供給したものとみられている。
外事課では警察庁の資料とも十分比較検討したうえ、こんどの無線機を「ソ連型」と断定した。
「三橋事件」のものと類似点が多いうえ、コンデンサー、抵抗器、真空管などはかって日本海岸に漂着したソ連の発信ブイに使われていたものと似ていたからである。
◆テープに暗号の穴
しかし「ソ連型」とはいえ、今度の無線機はとび抜けた性能を持っていた。もちろんけん盤をたたいて交信するような古いタイプのものではない。用意された紙テープにさん孔機で暗号数字を示す穴をあけ、送信機で一瞬にして遠い海の向こうに通信できるという“新兵器”だ。この無線機を使うと、1分で750~2500字を打電することができ、送信スピードは「三橋事件」のものなどより7~25倍というものすごさ。
さる27年以来、わが国で見つかったスパイ無線機はこれで14台目。しかし、今回のものほど優秀なものは、これまでになかった。外事課では、この無線機に関する一連の捜査作業を「ふじ」と名付け、あらゆる方角から内偵をはじめた。
■1969.1.8 読売新聞「ある伏流 ④ 埋設連絡その2―わからない犯行国-埋設せいぜい1年前」
◆埋設に車の陰利用
夜。時折り海岸道路を行きかう車のほかは、ひっそりと静まりかえった茅ヶ崎海岸。
パシフィックホテルのプール前駐車場に1台の車がスーッと止まる。ホテル入り口から北側に6本目の水銀灯の下。車の中から男が1人おりる。トランクをあけて修理道具を出し、ン松林の中に消える。一見、車の下に潜り込んで、故障個所を修理しているような光景。松林側は6、70cmの穴は直ぐ掘れるような砂地地帯だ。
やがて男は、車の中から重そうに箱のようなものを運び出し、水銀灯の下にそれを埋めた。跡をきれいに掃いて、何事もなかったかのように再び運転席へ。車は来た時と同じように、音もなく走り去った・・・。
男はもしかしたら、見張り役もいれて2人かもしれない。しかし、これがごく常識的に考えられる“無線機埋設”の風景である。鉄の箱の重さは中身も入れて20キロ、手で持ち運ぶにはやや重すぎるし、目立ちやすい。おまけに現場は水銀灯に照らし出されている。どうしても“陰”をつくるものが必要だ。こうした見方から埋設に車を利用したことは間違いないとの推測が生れる。
◆ホテル泊り客洗う
仮に埋めたものをⅩとしよう。するとⅩは少なくとも3回は現場に来るはずだったーと県警外事課では断定する。場所の選定が第一、実際に埋設作業を行うときが第二、そして無線機を受け取る相手―Zが確実に掘り出したかを見届けるのが第三。
それではいつごろまでの間に埋めたか。パシフィックホテルではさる41年4月の開業の際、駐車場脇に問題の水銀灯を設置した。つまり、過去2年以内であることは間違いない。
しかも、鐵の格納箱の表面のさび具合が比較的新しい点などからみると、せいぜい1年以内のことではないかとの判断が出てくる。
こうした見地から外事課では、同ホテルの過去1年の宿泊者リストを洗ってみた。宿泊者の中には、各国の観光客やビジネスマンもいたが、有力な手がかりは得られなかった。
◆うるし塗りの小箱
いったい誰が埋めたのか。いや、それよりも先にどこの国のスパイがこれを使うはずだったのか。
前回紹介したように、無線機が「ソ連型」であることは、はっきりしている。しかし、このことは“ソ連スパイ”を必ずしも意味しないのである。過去の事例で「ソ連型」が北朝鮮などの諜報員によって使われたケースがいくつかあるからだ。
一つの資料として考えられるものに予備の真空管が入っていた「うるし塗の小箱」がある。この小箱の内側はビロウドになっているが、このビロウドが先ごろ北朝鮮から日本人がもらった勲章の箱の内側に似ているというのである。もちろん、これも推測の域を出ない。
◆消された?協力者
こんな話もあった。
無線機が掘り起こされた昨年5月22日の2日前、5月20日未明の事である。
藤沢市内に住むQさん(50)が同市内の湘南遊歩道路を散歩中、トラックにひき殺されるという事件が起きた。
犯人の25歳の工員は、同日中に逮捕されたが、外事課ではこの事件に少なからぬ関心を持った。
というのも、事故の発生現場が、パシフィックホテルと比較的近いうえ、午前1時か2時、それも雨の降り続く遊歩道路になぜQさんが散歩に出たか、という点にひっかかったからだ。
さらにもう一つの理由は、Qさんがさる35年9月「浜坂事件」の首謀者として、兵庫県警に逮捕された北朝鮮スパイ・金俊英のかっての協力者だったことである。
金は、Qさんに北朝鮮にいる父親の写真をみせ、国内での協力を強要したのだった。
「もしかしたら、無線機の事を知っていたのでは・・・」と、同課が、このひき逃げ事件を調べたのも無理のないことだったが、これまでのところでは「関係なし」―「諜報」の世界の非情を思わせるエピソードだった。
◆あなたの身辺にも
結局、だれが埋めたのかつかめないまま、無線機を追って「ふじ」作業は難航している。
しかし、これほどの性能を持つ無線機を発掘できたことは、わが国治安当局にとって大きな収穫だった。
「仮にこの無線機を一組だけ作るとしたら、100万円はかかる」というのが、外事課の皮算用である。つまり、ある程度量産されているとみた方が正しいというのだ。いずれにせよ、無線機が県内で発掘されたのは、これで3組目。
さる33年9月25日、鎌倉市七里ガ浜の日本道路公団の道路補修現場砂山から一組、35年1月7日、横浜市金沢区朝比奈町の市営焼却炉建設敷地から一組、そして8年ぶりにこんどのものが出たわけだ。
いったい、この何倍の無線機がわたしたちのまわりに埋められているのだろうかー。
5、浜坂事件・金俊英の協力者だった医師・金泰明のひき逃げ事件報道記事
■1968.5.21 読売新聞「散歩中の医師死ぬ―藤沢 ひき逃げ大工を逮捕」
20日午前4時45分ごろ、藤沢市鵠沼海岸7-6-7、主婦・佐々木義子さん(41)が、前夜から帰ってこない夫の医師・相川泰明こと金泰明さん(50)を捜していたところ、自宅近くの県道に倒れており、病院に収容したが間もなく死亡した。
藤沢署で調べたところ、現場付近に普通トラックが乗り捨てられてあり、運転していたのは高座綾瀬町深谷5404、松村建設内、大工・船間武光(25)とわかり、同日午前10時30分轢き逃げ、業務上過失致死容疑で逮捕した。
船間は「19日午後9時ごろ、友人3人と酒を飲んで帰る途中、金さんをはねた。車がうごかなくなったので乗り捨てて逃げた」と自供している。なお、金さんは散歩の途中。
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